おやすみを送らない

冬木は、配信の最後に「おやすみ」と言わない。

その言葉は近すぎる気がした。知らない人の眠りを預かるようで、自分も誰かに見送られなければならないようで、いつも「今日はここまでです」で切る。

午前二時五十八分。今夜の配信も残り二分だった。

机のライトは橙色。窓には雨が細く流れ、エアコンの室外機が低く回っている。マイクの赤い表示は点いたまま、画面には三人のリスナーがいた。

冬木は、部屋の音について話していた。

冷蔵庫が止まった直後の広さ。上の階の椅子が一度だけ動く音。雨の日だけ排水管が鳴ること。人の声がなくても、夜は完全な無音にはならないこと。

残り一分、同時接続が二人になった。

コメント欄に「またどこかで」と一行が流れた。

毎回来る人なのか、偶然入った人なのか分からない。名前は記号のように短く、プロフィールも空だった。

冬木は返事を考えた。

「また来週」では約束になる。「ありがとう」だけでは、行を閉じすぎる気がする。「おやすみ」はやはり言えない。

エアコンが止まり、雨が前へ出た。上の階で、何か小さな物が床へ置かれる音がした。

冬木はマイクへ向かい、「ここまで聞いてくれた人は、それぞれの場所へ戻ってください」と言った。

少し変な言葉だった。三人のうち一人が月の印を押し、すぐ消えた。

「今日はここまでです」

終了ボタンを押す。赤い表示が消え、画面に保存中の円が回る。

誰にもおやすみを送らなかった。誰からも返ってこない。それでも「またどこかで」という一行は、会う約束ではなく、夜のどこかに別の部屋があるという印のように残った。

冬木はアーカイブの公開を翌朝に設定し、ノートパソコンを閉じた。室外機が再び回り始める。雨は弱く、排水管へ集まっていく。

窓を一センチだけ開けると、冷たい空気が入った。誰かの声はない。だから冬木は、自分の呼吸の速さを聞いた。

今夜は見送られなくても、眠る場所へ戻れる。冬木は机のライトを消し、おやすみを言わないまま、一人分の暗さを受け入れた。