きりたんぽが出汁を吸うまで

転勤初日の前夜、僕はまだ退職届の書式を検索していた。

希望していない部署、知らない町、知り合いのいない社宅。断れば今の支店には残れないと言われ、受け入れたものの、荷ほどきもしないまま逃げる方法ばかり考えていた。

社宅の近くで明かりのついた居酒屋へ入る。客は、カウンターの奥に座る無口な常連一人だけだった。僕が入口で立ち尽くすと、その人は自分の隣の椅子に置いていた上着を取り、壁へ掛けた。座れとも言わず、こちらを見もしなかった。ただ一席だけ空いた。

季節外れの冷たい雨だったので、きりたんぽの小鍋を頼んだ。鍋がことこと鳴り、鶏出汁と芹の青い匂いが湯気に混じる。斜めに切られたきりたんぽは、表面から少しずつ汁を吸い、白い米粒の隙間が飴色に変わっていった。

すぐ箸で持つと、まだ中心が固かった。店主が火を弱める。

「もう少し待つと、味が入る」

待っている間、奥の常連が店主から一枚の封筒を受け取った。中には店のポイントカードらしい小さな紙が入っている。何枚目なのか、端が擦れていた。男は無言で財布へしまい、僕の前にあった新品のカードを指で一度だけ示した。

店主が「作る?」と聞く。

僕は反射的に「まだ、この町にいるか分からないので」と答えた。常連は笑わなかった。カードを勧めることもなく、湯呑みを両手で包んだ。

きりたんぽをもう一度持ち上げる。今度は出汁を含んで重く、端が少し崩れた。噛むと鶏の旨みが米の中から出てきた。最初から染みていたわけではない。

僕は退職届の検索画面を閉じた。明日、辞めないと決めたわけではない。まず新しい上司に、担当業務と研修期間を具体的に聞く。社宅の段ボールを一箱だけ開け、仕事用のシャツを出す。それで合わなければ、改めて辞める手順を考える。

会計のとき、僕は新品のポイントカードを受け取った。名前欄は空白のまま、財布へ入れた。

鍋の底に残ったきりたんぽは、少し煮崩れていた。芹の香りを含んだ出汁は熱く、舌を急かさず、知らない町の夜をゆっくり喉の奥へ運んでいった。