ただいまの境石
八雲慎は動画配信の編集者だったが、同僚の代役で犬返山の現地配信に出た。禁足地の境には、人の背丈ほどの石が一本立っている。地元の聞き取り映像で、老女は一つだけ繰り返していた。
《境の石を越えるとき、「ただいま」と言ってはいけない》
「山を家だと思わせるから」と聞き手が要約した部分は、音声が消えていた。境石の裏には歴代入山者の住所が刻まれ、どの住所にも最後だけ《転居済》の朱印が押されていた。
配信コメント
19:02 ここから禁足地?
19:03 石を越えてみて
19:04 慎:はいはい、ただいまー
慎がその言葉を口にしたのは、冗談の一度だけだった。
コメント欄が止まった。森の奥から、数百人分の声が「おかえり」と返した。配信の位置情報は慎の自宅へ切り替わり、コメント欄には部屋の間取りを言い当てる書き込みが並んだ。《冷蔵庫の牛乳が切れている》《玄関の靴が一足足りない》と、山の中から見えるはずのないことばかりだった。音量計は振り切れたのに、配信には慎の声しか残っていない。足元の境石には新しい表札が現れ、《八雲》と刻まれていた。
慎は配信を切り、車まで走った。帰宅後、動画を削除し、アカウントも閉じた。同僚には機材トラブルと説明した。
深夜、部屋のスマートスピーカーが勝手に点灯した。
「慎さん、おかえりなさい」
いつもの帰宅通知だった。慎は少し安心し、「ただいま」と答えかけて口を閉じた。禁忌を破ったのは一度だけでいい。
スピーカーは続けた。
「山は留守になりました。戸締まりをします」
玄関のスマートロックが施錠され、カーテンが自動で閉じた。ホームアプリの住所が更新される。
旧自宅:東京都のワンルーム
新しい自宅:犬返山禁足地
慎が変更を取り消すと、本人確認の質問が出た。
《帰宅時の言葉を入力してください》
空欄のままにしていると、配信アプリから終了したはずのライブ通知が届いた。視聴者数は一人。映像には、誰もいない慎の部屋が映っている。玄関の外から、慎が鍵を叩いていた。
画面の中の慎が叫ぶ。
「ここが家だ。開けてくれ」
スマートスピーカーが静かに答えた。
「お客様を家の中へ入れることはできません」
ホーム画面で、慎の現在地だけが《外出中》になった。