はじまりの看板
ミュリエルが受け継いだ領地には、壮大な計画書だけが残っていた。
百里の運河、七つの貯水湖、王都より広い市場。
前の領主は毎年その夢を語り、計画税を取り、一本の溝も掘らなかった。
村では、崩れた井戸の代わりに泥水を煮て飲んでいた。
就任の挨拶で、村人たちはまた大きな約束を聞かされると思っていた。
ミュリエルは計画書を閉じる。
「国を変える話はしません。まず、この井戸を直します」
彼女が広場に出した紙は一枚だけだった。
水は無料。
修繕費は収穫の百分の一を上限とし、凶作の家は零。
支出は毎週公開し、余れば翌年の修繕へ残す。
井戸番は半年ごとに村の投票で選び、領主が任命しない。
「それだけですか」
村長が聞いた。
「それだけを、終わらせます」
必要なのは石材、縄、滑車、石工二人。
ミュリエルは領主館の銀食器を売り、その額も最初の収入として書いた。村人から集める前に、自分が何を出したかではなく、共同金にいくら入ったかだけを示した。
労働は強制せず、参加した時間には共同金から賃金を払う。受け取らず寄付する者がいても、まず賃金として帳簿に記してから寄付欄へ移した。
善意まで領主の手柄にしないためだった。
一日目、来たのは石工二人だけ。
二日目、泥水を煮る薪が惜しいと、炭焼きが加わった。
三日目には農婦たちが土を運び、羊飼いが縄を編み、読み書きのできる少年が帳簿を大声で読んだ。
「領主様の食事代、零!」
皆が笑い、ミュリエルも泥だらけのまま笑った。
古い井戸の崩れた石を外すと、底にまだ水脈が生きていた。
新しい石枠を積み、滑車を掛け、最後に蓋を載せる。
七日目の夕方、桶が下ろされた。
暗い底から、水を受ける音が返る。
縄を引いたのは、投票で最初の井戸番に選ばれた炭焼きだった。満ちた桶を見て、誰も万歳を命じられていないのに、広場中の手が上がった。
村長が用意した看板には、「ミュリエル領主記念井戸」と書かれていた。
彼女は筆を取り、その文字を横線で消す。
代わりに、少年へ尋ねた。
「何と書く?」
少年は少し考え、皆が使った帳簿の最後の余白へ目をやった。
――はじまりの井戸。
その名が看板に記される。
大運河も貯水湖も、まだどこにもない。
ただ一本の井戸から、最初の水が共同桶へ流れた。
村人たちは命令を待たず、次の月の話し合いの日付を、看板の下へ自分たちで書き足した。