ふたりとも帰らない
夕食の皿の横に、家の鍵が二本置かれていた。
瑞葉の前には赤い紐、亜澄の前には青い紐が結ばれている。
「どちらか、ここへ戻ってこられない?」
母が切り出した。
父の膝が悪くなり、階段のある家で二人だけは不安だという。
「瑞葉は独身だから動きやすいでしょう。でも亜澄は在宅勤務だし」
母は二人の顔を交互に見る。
「お姉ちゃんが無理なら妹。妹が難しいならお姉ちゃん。家族は助け合わないと」
瑞葉は味噌汁の椀を置いた。
亜澄は結婚しているが、子どもはいない。そのため母は「身軽な姉妹」と呼ぶ。瑞葉の仕事も、亜澄の配偶者との生活も、比較表では空白にされていた。
父が低い声で言う。
「昔、この家に金をかけて育てた。今度は返す番だ」
食卓の席は、子どものころと同じだった。瑞葉は父の正面、亜澄は母の隣。叱られる役と、なだめる役。
亜澄が青い紐の鍵を手に取った。
「戻らない」
母が息をのむ。
「瑞葉に押しつけるの?」
「瑞葉の返事は瑞葉がする」
瑞葉も赤い紐をつまんだ。
「私も戻らない」
母の目に涙が浮かんだ。
「二人とも、そんなふうに育てた覚えはない」
瑞葉は胸の奥が引かれるのを感じた。ここで席を立てば、薄情な姉が確定する。残って引き受ければ、優しい妹を守った立派な姉になる。どちらも母の物語だった。
「週に一度なら買い物を届けられる」
瑞葉が言う。
亜澄はメモ帳を開いた。
「手すりの工事と、訪問サービスを調べる。費用は四人で相談する」
父が鼻で笑う。
「他人を家に入れるのか」
「娘を住まわせるより先に、できることがある」
「親より自分の生活か」
「自分の生活をなくしてから助けると、親を憎むから」
亜澄の言葉に、母が泣くのを止めた。
許してほしいとは、どちらも言わなかった。母も謝らなかった。
四人で、来週業者に見積もりを頼む日だけを決めた。
食事が終わる。
瑞葉はバッグから、昔渡された実家の合鍵を出した。亜澄も同じ形の鍵を取り出す。
「持っていて」と母が言う。
瑞葉は首を振った。
「来るときは連絡する。入るときは開けてもらう」
「開けられない日が来たら?」
「そのとき、また方法を決める」
赤と青の紐をほどき、四本の鍵を玄関の小皿へ置いた。
姉妹は同じ家へは帰らない。
それでも来週の予定を、それぞれのカレンダーに入れてから扉を閉めた。