また明日では足りない

「また明日で十分です」

倉橋寧々は、長谷部透真が週末の予定を聞くたび、そう答えた。

同じ菓子工房で働き、毎朝会い、閉店作業のあと同じ終電へ走る。休日にまで約束しなくても、明日になれば隣の作業台にいる。寧々はその近さへ甘え、透真も深く聞かなかった。

けれど今夜は、寧々の最終出勤日だった。独立して小さな焼き菓子店を開く。応援してくれた透真には、出店場所も開店日も伝えたのに、その先の二人については何も決めていない。

片づけが長引き、駅へ着いたのは終電二分前。透真が寧々の重い道具箱を持ち、二人で改札を抜ける。

「明日から、朝早い?」

「しばらくは」

「困ったら呼んで」

「工房の仕事があるでしょ」

「仕事じゃなくても行く」

ホームに電車が入る。寧々は道具箱を受け取ろうとしたが、透真は渡さない。代わりに箱の持ち手へ、自分の店の合鍵を結んだ。

「これ、工房の鍵?」

「試作でオーブンが足りないときに使って。店長の許可も取った」

鍵には小さな札があり、《寧々》とだけ書かれていた。裏返すと、日曜朝八時、《新店舗で朝食》という予定と透真の名前。

「手伝い?」

「最初の客。閉店後は、次の約束を決める人」

透真は寧々の手を取った。発車ベルが鳴っても道具箱も手も離さず、同じ電車へ乗る。透真の駅は先なのに、今夜は寧々の新しい店まで道具を運ぶという。

寧々はスマホの連絡先から《長谷部さん》を消し、《透真》へ変えた。日曜の予定へ承諾を返し、その翌週にも《二人で看板を選ぶ》を追加する。

新店舗へ着くと、透真は道具箱を作業台へ置き、朝食用のコーヒー豆まで棚にしまった。寧々は合鍵を返さず、店の予定表の最初の日曜へ彼の名前を書く。毎日隣にいた習慣がなくなっても、会う理由は仕事以外に作り直せた。

透真は日曜の欄へ、小さく《その次も決める》と書き足した。

「また明日で十分です」

毎日会えるから先を決めなかった言葉は、もう使えない。

だから二人は、明日ではなく日曜、その次の土曜まで、会う日を自分たちで選んだ。