また明日の練習

書店のシャッターが下りるまで、あと七分だった。

白崎早苗は、閉店作業を終えた柳瀬元春へ紙袋を渡した。売れ残ったパンが二つ入っている。再開発のため、この店は今夜で閉店する。二年間、早苗は隣のベーカリーの遅番を終えると、書店へ寄って元春と駅まで歩いた。

別れ際に言う言葉は、いつも同じだった。

「またね」

元春が明日の予定を尋ねても、早苗は「分からない」と答えた。連絡が来れば会うが、自分から翌日を約束しない。二人の関係にも名前をつけず、その日ごとに終わらせた。

「この店がなくなったら、もう偶然会えないね」

「近所なんだから、そのうち会うよ」

「またね、で終わらせる?」

シャッターが半分まで下がる。元春は来週、別の店舗へ移る。通勤路は反対方向になる。閉店後に一緒に歩いた二百三十六回の帰り道も、今夜で偶然では続かなくなる。

早苗が十歳の頃、父は出張へ出る朝に「また明日」と言った。そのまま家へ戻らず、数日後、離婚するという連絡だけが来た。明日という言葉は、来ない人ほど簡単に使う。そう思ってから、早苗は約束を当日まで作らなくなった。期待しなければ、待つ夜もない。元春から翌週の予定を聞かれるたび、早苗はその場で空いている時間だけを答え、先の約束を残さなかった。

「明日って言うの、嫌い?」

「当てにならないから」

「俺が来なかったら、怒っていいよ」

「怒るのも、待つのも嫌」

元春は説得しなかった。紙袋からパンを一つ取り、もう一つを早苗へ返す。

「じゃあ、これは明日の朝に食べる。俺は七時半に電話する。出なくてもいい」

閉店のブザーが鳴った。安全なのは、いつもの言葉で別れることだった。

早苗はスマートフォンのアラームを七時二十五分に設定し、名前を〈元春から電話〉にする。紙袋を受け取らず、二つのパンを元春に持たせたままにした。

「またね、じゃなくて、また明日」

シャッターの下を二人でくぐる。翌朝の約束はまだ何も保証しない。それでも早苗は、来るかもしれない電話のために、着信音を消さずに帰った。