もういりません
槇野冬一は、閉じた玩具店の鍵を持って、願いの店へ行った。
七十四年続いた店を、明日取り壊す。
冬一は子どもの頃から店番をし、父から継ぎ、妻と切り盛りし、妻を見送ったあとも一人でシャッターを開けた。だが客は減り、最後の一年は、電池を買う人しか来なかった。
「一人でいい。うちの店を覚えている人がいてほしい」
願いの店の女主人は、湯気の立つ椀を差し出した。
「この願いは、いらなくなったときにかないます」
「いらなくなるわけがない」
「では、まだお売りできません」
冬一は毎日通った。
取り壊しは延期できない。願いが必要だ。写真や看板を残しても、誰にも覚えられなければ、店は最初からなかったのと同じになる。
「もう十分待った」
「いらなくなりましたか」
「必要だから来てるんだ」
同じ会話を繰り返した。
取り壊し当日の朝、冬一は諦めて玩具店の前に立った。
看板は色あせ、ショーウインドーには何もない。工事の人が来るまで、あと三十分。
そこへ、若い父親と女の子が歩いてきた。
父親は足を止め、空のショーウインドーを見た。
「ここ、昔おもちゃ屋だったんだ」
女の子が聞く。
「何買ったの?」
「何も。お金なくて、毎日見てただけ」
父親は笑った。
「でも店のおじいさんが、売り物のロボットを動かしてくれた。閉店までずっと。家に帰るのが嫌だった時期でさ。あの店の前だけ、帰らなくても怒られなかった」
冬一は、その父親を覚えていなかった。
何千人もいた、ショーウインドーへ鼻をつける子どもの一人だ。
女の子が父親の手を引いた。
「ロボット見たかった」
「もうないよ」
冬一は鍵を開けた。
奥の段ボールから、古いブリキのロボットを出す。売れ残りではない。あの日々のあと、動かなくなっても捨てられなかったものだ。
ねじを巻くと、ロボットは震えながら三歩だけ進んだ。
女の子が拍手した。
父親は冬一の顔を見て、目を見開いた。
「もしかして、店のおじさん?」
「今は本当に、おじいさんだ」
三人で笑った。
工事の車が角を曲がってくる。
冬一は願いの店のことを思い出した。
一人でいいと思っていた。その一人はもういた。自分が知らない場所で、ずっと店を覚えていた。
冬一は玩具店へ向かって言った。
「もういりません」
風もないのに、古い看板が一度だけ鳴った。
振り返ると、願いの店があった路地には白い壁しかなかった。
女の子にロボットを渡す。
願いは、いらなくなってからかなったのではない。
かなっていたと分かったから、いらなくなったのだ。