スプーンを伏せる人
雨宮璃寛の部屋へ、別れた恋人の母が来たのは午前一時だった。
息子の荷物を引き取りたい、と電話で言われた。声は冷たかった。
恋人は周囲に、璃寛が突然ほかの男を作って追い出したと話している。実際には、連絡先を消され、給与口座を管理され、帰宅が遅い日は玄関の前で朝まで謝らされた。けれど母親へそれを説明する気力はなかった。信じてもらえなければ、もう一度同じ夜を繰り返すことになる。
電話の声には、息子を傷つけた相手への怒りが混じっていた。璃寛は荷物を渡し、鍵を替え、それで終わらせるつもりだった。
母は段ボールと一緒に、小鍋を持ってきた。
「食べていないでしょう」
セロリのスープを一杯だけよそい、璃寛の前へ置く。青い香りが立ち、細い繊維が舌へ残った。
恋人はセロリが嫌いだった。母は昔から、息子の分だけ何度も漉して繊維を取り除いたという。璃寛にも同じようにしろと命じ、一本でも残ると器を流しへ返した。
今夜のスープには、繊維がそのまま入っている。
母は向かいに座らず、息子の服を箱へ詰めた。璃寛は一口ずつ食べた。食欲はなかったが、漉されていないことだけで、これは彼のための料理ではないと分かった。
箱の底から、予備の合鍵が出てきた。
母の手が止まる。
璃寛は何も言えなかった。恋人が返したと言っていた鍵だ。実際には無断で複製し、別れたあとも一度、部屋へ入った形跡があった。
母は鍵を掌へ載せ、スープを見る。
璃寛の器には、あと一口だけ残っていた。長いセロリの繊維がスプーンへ絡み、どうしても飲み込めない。
母はその一口を捨てろとも、我慢して食べろとも言わなかった。璃寛の手からスプーンを取り、伏せたまま器の上へ置く。
食事は終わりだ、と示す置き方だった。
母は合鍵を自分の財布へ入れ、息子の箱から管理会社の書類だけを抜き取った。そして小鍋も持たず、玄関へ向かった。
「鍵は、私が返します」
それ以上は聞かなかった。
残った一口からは、セロリの香りがまだしている。璃寛はそれを流しへ捨てず、器ごとテーブルに置いた。
母が持ち帰らなかった小鍋には、漉していないスープがもう一杯分残っていた。
それが息子の分でないことを、二人とも言葉にしなかった。