チェックアウト前の共同著者

 ホテルのチェックアウトまで、あと十五分だった。

 島津深央は、学会発表を終えた浅倉尚人とロビーの端で向かい合っていた。テーブルには、四年前の企画書が置かれている。

「返す」

 深央が言うと、尚人は笑わなかった。

「紙を?」

「名前を」

 四年前、二人は同じ研究室で付き合っていた。尚人が考えた地域医療アプリの構想を、深央は就職試験の課題へ使った。彼の名前を載せず、自分一人の提案として。

 締切前夜、尚人はデータも図も自由に使っていいと言った。二人で作ったものだから、と。

 深央は採用され、企画は社内事業になった。表彰式の写真では笑っているが、質疑で「着想のきっかけ」を聞かれるたび、尚人の部屋で交わした会話を別の言葉へ置き換えた。

尚人が求めていたのは共同開発だったと知りながら、内定を失うのが怖くて黙った。

「今さら共同著者にして、気が済む?」

「済まない」

「会社は君の実績として扱ってる」

「訂正申請を出す」

「俺が断ったら?」

「それでも、私だけのものじゃないと公表する」

 フロントがチェックアウトを促す。尚人は昼の便で海外へ戻る。次に会える予定はない。

 尚人は抗議も告発もしなかった。ただ、共同研究のフォルダから退出し、深央の連絡先を消した。その静かな断絶が、責められるより長く残った。

 深央は彼をまだ好きだった。けれど好きと言えば、功績を返す代わりに関係まで返してもらおうとしているようで言えなかった。

「返したかったのは、名前だけ?」

「最初は」

「今は?」

 逃げられないロビーで、キャリーケースの車輪が次々と通り過ぎる。

「四年前の時間は返せない」

「うん」

「あなたが私を信じて渡したものも」

「うん」

「だから、返すだけで終わらせたくない」

 深央は新しい企画書を開いた。まだ題名しかないページの著者欄へ、最初に〈浅倉尚人〉と入力する。その下へ自分の名を置いた。

「今度は一緒に作りたい。断る権利ごと、あなたに渡す」

 尚人はすぐに答えなかった。

 チェックアウト時刻を過ぎ、フロントから延長料金を告げられる。深央は席を立たず、その場で訂正申請を送信した。

 送信済み画面を尚人へ向け、帰国便の予定を聞くための連絡先欄だけは空白にしなかった。