ベルが鳴ったら顔を上げる

芙和は、会議で発言する前に必ず誰かの顔を見た。うなずいている人がいれば話す。眉をひそめる人がいれば黙る。空気を読むのが上手だと褒められ、気づけば自分の意見がどこにあるのか分からなくなっていた。会議のあとに一人で思いつく言葉だけが、メモ帳に増えていった。翌日には「今さら」と線を引き、誰にも見せない。線の下には、採用されなかった案より、口にしなかった案のほうが多かった。

出勤途中の商店街で、胸に大きな方位磁針を下げた旅人が立っていた。針は北を指さず、通行人が目をそらすたび、その人のほうへ回る。旅人の帽子には小さなベルがついていて、針が動くたびちりんと鳴った。

「壊れていますよ」

芙和が言うと、旅人は磁針を覗いた。

「これは、いちばん見ないふりをしている方向を指します」

針がくるりと回り、芙和を指した。帽子のベルが鳴る。思わず目を伏せると、旅人は満足そうに紙のベルを一つ渡した。

「次にベルが鳴ったら、誰の顔も確かめず、先に顔を上げてください」

「何を見ればいいんですか」

「上げてから決めてください」

旅人は磁針に導かれるまま、閉まった店のシャッターへ向かって歩き出した。そこには鏡のような金属板があり、旅人自身が映っていた。針はまだその像を指している。

午前の企画会議で、芙和は末席に座った。新商品の広告案が映される。若い女性向けなのに、登場する女性は全員、誰かに選ばれるのを待つ構図だった。違和感を覚えたが、部長は満足そうで、先輩たちはメモを取っている。芙和のメモ帳には「選ぶ側の女性も入れたい」と書いてある。昨日から消せずに残した一行だった。

いつものように周囲を見る。隣の人の表情を確かめ、反対側のうなずきを探す。誰も異論を言わない。

そのとき、オンライン参加者の入室音が鳴った。高く短いベルの音だった。

芙和の指が紙のベルに触れる。正しい言い方も、代案もまだない。声が震えれば、説得力がないと思われるかもしれない。空気を壊すかもしれない。けれど、顔を上げてから決めるのだ。

芙和は誰の表情も見ず、スクリーンをまっすぐ見た。そして部長が次へ進む前に、テーブルの上で手を挙げた。