ポケットにない鍵
屋上の鍵を返す日、僕は非常階段で一年生を見つけた。
膝を抱え、制服の袖で顔を隠している。授業中だった。去年の僕と同じ場所、同じ姿勢だった。
「そこ、風通し悪いよ」
声をかけると、一年生は顔を上げた。泣いてはいない。泣く前の、息を止めた顔だった。
僕は隣へ座った。生徒会の腕章を外し、ポケットへ入れた。今日は卒業前の校内巡回で、本来なら教室へ戻す側だ。
「サボりです」
一年生が先に言った。
「見れば分かる」
「先生に言いますか」
「考え中」
僕は鍵を手のひらで転がした。
この鍵は、二年前に先輩から渡された。用務員室の古い予備鍵。屋上でしか話せないことがある生徒のために、代々こっそり受け継がれてきたらしい。最初は作り話だと思った。けれど僕も、家に帰りたくない日、進路を決められない日、誰にも会いたくない日に使った。
「上、行く?」
一年生は立入禁止の札を見た。
「いいんですか」
「よくはない」
扉を開けると、三月の風が一気に入った。屋上には何もない。古いベンチも、秘密の落書きもない。ただ空が広く、校庭の声が遠い。
一年生はフェンスから離れた場所に座った。
「何があったか、聞かないんですか」
「言いたいなら」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、教室で笑われるのが怖くて返事ができないこと。友達に心配されるほど、自分が壊れている気がすること。明日も学校へ来る自信がないことを、途切れ途切れに話した。
僕はほとんどうなずくだけだった。
二年前の先輩も、僕に同じようにした。助言をせず、励まさず、風の音の中へ言葉を置かせてくれた。
「ここに来れば、明日は来られますか」
一年生が聞いた。
「分からない」
僕は正直に答えた。
「でも、来られない日を一日ずつ考えられる。教室に戻るか、保健室へ行くか、帰るか。全部決めなくていい」
一年生は空を見た。
予鈴が鳴った。僕らは扉の前まで戻った。
「鍵、先生に返すんですよね」
「その予定だった」
僕は鍵を差し出した。けれど一年生は受け取らなかった。
「なくしたら怖いです」
「僕も最初そう思った」
「卒業したら、どうするんですか」
「鍵がなくても、話せる場所を探す」
それは一年生へ言ったというより、自分への約束だった。
結局、鍵は渡さなかった。秘密の鍵を年下へ押しつけるのは、少し違うと思ったからだ。
用務員室へ返すと、担当の先生は鍵を見て驚いた。
「これ、ずっと前になくなったと思ってた」
僕は謝り、屋上を時々開けてほしいと頼んだ。立入禁止ではなく、先生や相談員と一緒なら入れる場所にしてほしい、と。
春から、屋上は週に一度だけ開放された。
卒業式の日、一年生が校門で僕を呼び止めた。
「昨日、教室に戻れました」
「今日は?」
「今日は、屋上に行かなくても大丈夫です」
僕はうなずいた。
鍵はもうポケットになかった。それでも、扉が一つ開いた音がした。