ロバ屋台の帰り道

 葉室祥子は、選ぶことに疲れていた。

 給食会社で献立を考え、栄養、予算、季節、子どもの好みを毎日比べる。帰宅前にスーパーへ寄っても、豆腐一丁を決めるだけで棚の前に立ち尽くした。

 商店街の夜市に、「荷月亭」という屋台が出ていた。

 店主は灰色のロバ、荷月。人間の料理人が大鍋をかき混ぜ、荷月は首から木の札を下げている。

 札には、〈本日の献立 豆と鶏の赤いスープ〉と一品だけ書かれていた。

「ほかのメニューは?」

 祥子が訊く。

「ありません」

「辛さは選べますか」

「途中で香辛料を足せます」

「パンかごはんは?」

「今日はごはん」

「量は?」

「座れば普通。持ち帰れば少なめ」

「なぜ?」

「持って歩くと重いから」

 選択肢の少なさに、祥子は少し笑った。

「では、座ります」

「よい選択です」

 荷月が耳を立てた。

 木の椅子へ腰を下ろすと、人間の料理人が深い器を渡した。赤いスープには白い豆、鶏肉、玉葱、人参。クミンとトマトの香りが湯気に混じり、表面へ刻んだ香草が浮いている。

 一口目は穏やかで、あとから体の内側が温まった。

「毎日、一品だけですか」

「一頭で運べる鍋は一つです」

「客が食べたいものと違ったら?」

「別の屋台へ行く」

「商売として不安では」

「全部の人を満腹にしようとすると、鍋が焦げる」

 祥子は仕事のことを思い出した。

 あれも入れ、これも減らし、誰にも嫌われない献立を作ろうとして、味がぼやける日がある。

「一つに決めるの、怖くないですか」

 荷月は大きな鼻から白い息を吐いた。

「今日の鍋を選ぶ。明日の鍋は明日選ぶ」

「今日、間違えたら?」

「塩を足す。次に変える。食べた者と話す」

 祥子は途中で唐辛子を一振りした。辛さが増し、豆の甘さがよく分かる。

 器を空にすると、荷月が木札を裏返した。〈本日分、あと三杯〉

「明日は何ですか」

「まだ決めていません」

「店主なのに」

「今夜は今夜の鍋を洗う」

 祥子は屋台を離れ、スーパーへ寄らずに帰った。明日の朝食は家にある卵でよい。明後日のことは、明日考える。

 夜風は冷たかったが、腹にはトマトとクミンの熱が残る。振り返ると、荷月の屋台から白い湯気が上がり、人間の料理人の笑い声と、ロバの低い声が混じっていた。

 翌週、祥子は自分の献立表へ、材料を詰め込みすぎない一品を書いた。

 帰りに荷月亭へ寄ると、今夜の札は〈蕪と魚の白いスープ〉

「選びますか」

 荷月が訊く。

「座ります」

 それだけで注文は通った。

 蕪の甘い香りが立つ椅子で、祥子は両手を器へ添えた。帰り道は、温かな一杯を飲み終えてから決めればよかった。