一番上のボタン
江波戸咲良は、服の直し店でブラウスの首回りを詰めてもらっていた。会社指定の制服ではない。それでも職場では、襟元まできちんと留めるのが自分の役目だと思っている。頼まれごとにはその場で返事をし、考える時間を求めたことがない。昨年も急な担当替えを受け、引っ越しの予定を取り消した。相手を待たせないことを誠実さだと思ううち、自分の都合は返事のあとにしか現れなくなった。昨年取り消した引っ越しは、通ってみたかった夜間学校の近くだった。担当替えを受けたあとで願書の期限を知り、咲良は「仕事だから仕方ない」と誰にも聞かれていない説明をした。すぐ返事をするたび、迷っていた自分は最初からいなかったことになった。
鏡の前で仮縫いを確認すると、喉が少し苦しい。店主の児玉理津は五十三歳で、首に黄色いメジャーをかけていた。
「返事をするとき、どこが最初に固くなる?」
針を止めずに理津が訊いた。
「返事?」
「急に何か頼まれたとき」
咲良は考えた。肩より先に、喉が狭くなる。断る言葉が通れなくなるように。
「たぶん、ここです」
一番上のボタンへ触れると、理津は糸を切った。
「明日、大事な返事の前に、そのボタンを一つ外してみて。答えは、そのあと」
「だらしなく見えませんか」
理津はボタン穴を少しだけ広げながら、「外したままにしろとは言ってない」と答えた。何を選べとも言わなかった。
翌朝、咲良は直したブラウスを着て出社した。首回りは楽になったのに、習慣で一番上まで留める。
午後、部長に会議室へ呼ばれた。来月から別支店へ移ってほしい、今日中に返事が必要だと言われる。昇進につながる話だが、通勤は二時間になる。咲良はいつものように「わかりました」と言いかけた。
喉が固くなる。
机の下で指を襟へ運び、一番上のボタンを外した。小さな隙間から空気が入る。部長は返事を待っている。
咲良は息を一度だけ吸った。
「今日中ではなく、明日の朝まで考えさせてください」
言い終えてから、外したボタンには戻らなかった。