一番安い音
渚ヶ原央知は、フード付きパーカと布のトートバッグで高級オーディオサロンへ入った。
試聴室には、総額五千万円のスピーカーとアンプが並んでいる。央知が「一番安い音を聴かせてください」と頼むと、店長の宇田津沙紀は眉を寄せた。
「価格表だけご覧になりますか。こちらは学生の試聴室ではありません」
「安い機器でも、いい音になる組み合わせを知りたいんです」
「高級品は、買える方が違いを楽しむものです」
若い音響技師だけが、央知のバッグから覗く古い録音テープへ気づいた。再生機を用意しようとしたが、宇田津は「価値のない持ち込み音源で機材を使うな」と止めた。
央知はテープをしまい、技師の名を聞いて帰った。
翌日、サロンでは親会社の新ブランド発表会が開かれた。低価格でも修理可能な家庭用音響シリーズと、創業者音源の復刻が発表される予定だった。
壇上へ現れたのは央知だった。
渚ヶ原家は、音響機器、録音スタジオ、販売店を所有するグループの創業家。央知は現社長兼音響設計者だった。古いテープには、創業者である祖父が最初に録音した弦楽四重奏が入っている。新製品の音を確認する基準音源として、全工房で使われていた。
宇田津は顔を青くした。
「社長なら、最高級試聴室をご用意しましたのに」
「私は一番安い製品を頼みました。そこへ店の思想が出るからです」
監査資料には、宇田津が高価格品だけを優先し、入門機の修理相談を断って買い替えへ誘導した記録があった。若い技師は入門機でも部屋に合わせて調整し、長く使える提案を続けていた。
央知は彼を新ブランドの全国研修責任者へスカウトした。
宇田津の店長権限が停止され、五千万円の試聴室ではなく、十万円の新型システムが会場中央へ置かれる。
古いテープが再生される。小さなスピーカーから、弦の息遣いまで鮮明に立ち上がった。
世界発売の承認ランプが灯り、若い技師の任命書へ署名が入った瞬間、一番安い音を拒んだ宇田津の肩書だけが、会場で最も価値のないものになった。