一瞬だけの宿屋
「《瞬眠宿》――本人が望めば、一瞬で一晩ぶん眠った気分にする」
英雄神殿の選定官は、ハルヴァの能力を見て失笑した。
【技能:同意した一人へ、八時間分の睡眠感覚を一瞬で与える。肉体と魔力は回復しない】
疲労も傷も消えない。ただ頭が休んだ気になるだけ。旅の慰安には便利でも、魔王討伐の切り札にはならない。ハルヴァは勇者候補の寝床係にされた。
選定最終日、魔王の影が神殿を襲った。
黒い霧には未来をずらす力があり、剣を振ればその一秒前へ逃げ、魔法を撃てば発動前に術者を倒す。戦神の化身セイラムでさえ、肩を裂かれて膝をついた。
唯一、星見の巫女なら影の逃げ先を夢で見られる。しかし予言は『問いを抱いて眠り、目覚めた後』にしか得られない。戦闘中に眠れるはずもなく、神殿は追い詰められた。
ハルヴァは巫女リセアの前にしゃがんだ。
「眠りたいですか」
「怖くて、目を閉じられません」
「閉じるのは一瞬です」
前世で夜勤をしていた彼は知っている。身体が動いても、頭が休まなければ判断は死ぬ。逆に、夢だけが必要なら、肉体の回復は要らない。
リセアが頷く。
ハルヴァは技能を使った。
巫女の瞼が落ち、すぐ上がる。その間に彼女は夢の中で八時間、黒い影を追い続けた。目覚めた瞳には星図が映っている。
「三度目の回避だけ、未来ではなく現在の左へ戻ります!」
セイラムが立つ。
一撃目。影は過去へ逃げた。二撃目。未来へ滑った。三撃目、巫女の予言どおり左へ現れた瞬間、戦神の槍が核を貫いた。
黒霧が晴れ、朝日が神殿へ差し込む。
選定官はハルヴァに近づき、寝床係の札を握り潰した。
「肉体も魔力も回復しない。そう記されていた」
「はい」
「だが、八時間考える時間を一瞬で作れるとは、誰も読まなかった」
戦神セイラムが槍を杖にして歩み寄る。彼はハルヴァの前で兜を脱いだ。
「勇者には剣士も賢者もいる。だが、決断の前に一晩を与えられる者はいない」
神殿の選定板から『無能』の文字が消えた。
代わりに浮かんだ新しい称号を、セイラムが声にする。
「《戦略聖域》。ハルヴァ、次の戦いでは私の隣に宿を開け」