七千泊
黒瀬晃成は二十七歳の決済アプリ開発者で、古民家宿のキャッシュレス導入を手伝うため針戸村へ出張した。宿は現金商売を続け、宿帳の最終列へ主人が料金を書き込む方式だった。
最後の頁だけ、最下段の料金欄が空いている。宿泊者名は黒く塗り潰され、泊数の欄もない。
主人は端末の説明を聞いたあと、帳面を指した。
《宿帳の最終行に、自分で宿代を書いてはいけない》
晃成はテスト決済の金額を記録する必要があった。主人が席を外した間に、空欄へ一度だけ「7000」と書いた。円記号を付ける前に、墨が数字を囲んだ。
料金欄ではなく、泊数欄に「七千泊」と浮かぶ。
主人は戻ると、決済端末を箱へしまった。
「昔の宿代は、お金ではなく泊まる夜の数でした」
晃成は数字を消そうとしたが、紙が削れるだけだった。その晩は眠らず、始発で村を離れた。
会社へ戻ると、予約アプリに見知らぬ滞在情報が同期されていた。
宿泊先:針戸村
チェックイン:昨夜
チェックアウト:十九年二か月後
残り:6999泊
キャンセル料はゼロ。しかし《宿泊者本人が客室外にいるため手続き不可》と表示される。位置情報を切っても、残り泊数は毎朝一つずつ減った。
一週間後、晃成の決済アプリへ一円の入金があった。名目は《一泊返却》。翌日は二円、その翌日は三円。金額と引き換えに、自宅で眠った記憶が一晩ずつ消えた。
残り泊数が減るにつれ、晃成の生活から夜だけが抜け落ちた。夕方に瞬きをすると朝になり、机には仕事を終えた記録が残る。会社の同僚は、夜勤中の晃成と毎晩会っているという。防犯カメラには眠ったままの彼がエレベーターへ運ばれ、画面外へ消える姿が映っていた。宿へ電話すると主人は、「七千夜をまとめて泊まる客もいます」と答えた。
ある朝、スマートウォッチが睡眠を七時間記録したのに、晃成には夜の記憶がない。予約画面の残りは、なぜか一気にゼロになっていた。
直後、決済端末のテスト通知が届く。
《七千泊の精算が完了しました》
《宿泊者を客室へ返却します》
自宅のベッドで、宿の木札が震え始めた。