二つの名刺

即売会の机の下で、伊吹は二種類の名刺を握っていた。

一枚は勤務先の経理部で使う白い名刺。もう一枚は、同人作家「夜汽車」の黒いカード。普段なら会社の名刺は家に置くのに、昨日の商談で鞄へ入れたままだった。

午後、列の先頭に立った男性を見て、伊吹の背筋が固まった。取引先の担当者だった。月に一度、請求書の確認で顔を合わせる相手が、夜汽車の新刊を手にしている。

相手も気づいたらしい。

「経理の……」

伊吹は反射的に黒い名刺を隠した。

周囲には読者がいる。ここで本名を呼ばれたくない。けれど月曜に商談室で夜汽車先生と呼ばれるのも耐えられない。

担当者は言葉を止め、声を落とした。

「今日は、どちらのお名前で呼べばいいですか」

からかいではなかった。

伊吹は机の上の値札を見る。そこには自分で書いた「夜汽車」と、新刊の題名がある。三年間、顔を隠すため帽子を深くかぶり、職業を聞かれれば曖昧に笑ってきた。作品が好きなのに、それを作る自分だけを恥ずかしいものとして扱っていた。

「ここでは、夜汽車で」

答えると、担当者は頷いた。

「新刊、一冊お願いします。前作も好きでした」

会計を済ませ、伊吹は黒いカードを差し出した。手が触れる直前、白い会社名刺が鞄から落ちた。

拾った担当者は、表を見ずに返してくれる。

「月曜は、そちらで」

境界を守るような言葉だった。

伊吹は少し迷い、白い名刺も自分から取り出した。二枚を並べ、裏面同士を合わせる。

「どちらも私です。ただ、使う場所が違います。片方が偽物というわけではありません」

担当者は二枚とも受け取らず、黒いほうだけを選んだ。

「では今日は、こちらを」

月曜の商談で、相手はいつも通り伊吹の名字を呼んだ。新刊の話は一度もしなかった。

昼休み、伊吹は名刺入れを開く。白と黒を別々の仕切りへ戻す。隠すためではなく、必要なとき正しい一枚を選べるように。

次のイベント用の申込書には、代表者名と作家名の欄があった。

伊吹はどちらにも、自分の手で迷わず書き込んだ。