二つの名前で配信開始

片瀬珠希は、配信で本名を呼ばれたことがなかった。

〈タマユラ〉として活動して四年。顔も住まいも勤務先も伏せ、友人にさえ秘密にしてきた。声だけで築いた場所だからこそ、安全だと思っていた。

初めて他の配信者と対面で協力配信をする日、珠希は控室で何度も注意した。

「本番では、タマユラって呼んでください」

相手の〈レンガ〉はうなずいた。

「分かってる。珠希さん」

「今から練習して」

本番は順調だった。二人で迷宮を進み、最後の扉までたどり着く。ところがボスの奇襲に驚いたレンガが叫んだ。

「珠希、後ろ!」

配信画面のコメントが止まり、次の瞬間、一気に流れた。

〈珠希?〉

〈本名?〉

〈タマちゃんって珠希なの?〉

珠希は操作を止めた。配信を切れば、音声を編集して再公開できる。レンガは青ざめ、何度も謝っている。

けれど珠希の胸に浮かんだのは、怒りだけではなかった。

「珠希」と呼ばれた瞬間、〈タマユラ〉が壊れたのではなく、自分のほうへ戻ってきた気がした。

もちろん、何もかも明かす必要はない。名字も会社も、暮らしている場所も守っていい。

珠希はキャラクターを動かし、ボスの攻撃をかわした。

「はい。下の名前は珠希です」

コメント欄が再び速くなる。

「でも、ここではタマユラ。名字や仕事を探すのはやめてください。守ってもらえないなら、配信は終わります」

レンガも画面の向こうで頭を下げた。

「本当にごめん。詮索や切り抜きは削除します」

常連の視聴者が最初に書いた。

〈了解、タマユラ〉

続いて、同じ言葉が何十、何百と流れた。中には退出する人もいた。それでよかった。境界を守る約束の中に残る人と続ければいい。

ボスを倒したあと、珠希は配信終了画面を開いた。普段ならすぐ赤いボタンを押すところで、少し考える。

「レンガさん。もう一回、始めの挨拶だけ付き合って」

「え?」

珠希は配信を切らず、姿勢を正した。

「こんばんは。ゲーム配信者のタマユラです。珠希という人がやっています」

声にしてみると、どちらの名前も嘘ではなかった。

珠希は笑い、もう一度〈配信開始〉の効果音を鳴らした。