二人分ではない住所
「一人で平気って、いつまで言うの」
母からの電話は、透花が二枚の入居申込書を並べた夜に来た。
一枚は駅近のワンルーム。静かで、鍵を閉めれば誰にも会わない。もう一枚は、年齢も職業も違う女性十人が暮らすコーポラティブハウス。個室はあるが、台所と庭を共有し、月一回の運営会議に出なければならない。
母は、実家近くの空き部屋へ戻ればいいと言った。家賃も安く、具合が悪いときも安心だと。
透花は一人が好きだった。けれど、一人でいることを好きだと言い続けるうち、助けを求める言葉まで失いかけていた。だからといって、誰かと暮らせば不安が消えるとも思えない。
ワンルームの鍵は一本。共同住宅の鍵は、自室用と共用玄関用の二本。二本を持つ未来には、他人の物音や当番や、合わない人との話し合いがある。
「戻らない」と透花は母に言った。
「じゃあ、ずっと一人でいるの?」
その二択しかないと思っていたのは、母だけではなかった。
「一人の部屋を持って、人と暮らす」
母は意味が分からないと言った。透花にも、うまくいくかは分からない。共有冷蔵庫の使い方で揉め、会議を面倒に思い、半年で出るかもしれない。
電話を切ると、不動産会社から二件のメッセージが届いた。ワンルームは今夜中なら確保可能。共同住宅は面談後に入居可否が決まる。確実な部屋と、選ばれない可能性のある家。
透花はワンルームを辞退し、共同住宅の申込書へ署名した。希望理由の欄には、「孤独が怖いから」ではなく、「関わり方を練習したいから」と書いた。
送信しても、住所はまだ決まらない。母の不安も、自分の不安も残ったままだった。
それでも透花は、誰かと二人になる未来か、一人きりの未来かという古い二択を閉じた。面倒な十人分の鍵の音を、自分が選んだ暮らしとして聞く準備を始めた。
面談の末、透花は入居を認められた。受け取った封筒には、自室の小さな鍵と、共用玄関の長い鍵が入っていた。初日の夜、台所では鍋の置き場所を巡って早くも言い争いが起きた。ワンルームなら聞かずに済んだ声だった。透花は自室へ逃げ、内側から鍵をかけた。それでも翌朝、もう一本の鍵を持って台所へ戻った。静けさを失った不満まで、誰かと関わる練習の授業料として払うことにした。