二十九番のない文字盤

 直江梢は、余時堂の壁に掛かった数字のない時計を見上げた。

 丸い木枠の内側に、十二本の短い線だけがある。何時かは分かるが、数字はどこにもない。古い学校時計の文字盤を作り替えた品だと、札に書かれていた。

 梢は来週、二十九歳になる。

 誕生日が近づくたび、周囲の言葉へ数字が増えた。三十までに結婚、三十五までに子ども、住宅ローンは早いほどいい。梢自身は小さな作業場を借り、勤めながら金属アクセサリーを作りたい。三年契約の物件を見つけたが、母からは「今、身動きを取りにくくしなくても」と言われた。

 契約期限は今日だった。三年後は三十二歳。その数字を考えると、家賃より重いものを背負う気がして、署名できずにいる。

「数字は後から付けられますか」

 梢が尋ねると、店主は時計を壁から外し、裏の留め方を見せた。数字を貼ることはできる。だが木は日焼けするので、後から外せば跡が残るという。

 店主は真鍮の数字見本を出さず、時計を作業台へ伏せた。機械のねじを締め、針が枠へ触れないか確かめる。表へ返して時刻を合わせるとき、三時、六時、九時、十二時とは言わず、長い線を基準に針を置いた。

 梢は契約書を開いた。期間の欄に〈三年〉とある。その下には更新、途中解約、用途変更の条件が続く。三年は人生の判決ではなく、解約方法まで書かれた契約だった。

 署名欄へ名前を入れ、電子印を押す。用途には〈制作作業場〉と記した。送信後、管理会社から受領通知が届く。

 店主は会計票の用途欄で、〈贈答〉ではなく〈自宅用〉へ丸をつけた。時計を箱へ収める前、文字盤の中央へ柔らかな紙を置き、針を守る。数字のない面は、最後まで見える向きだった。

 梢は箱を受け取り、誕生日用の包装は頼まなかった。

 店を出る直前、もう一度時計を見る。長針は一本の線を越えていた。そこが何番目か数えなくても、時間は進んでいる。

 三年後の自分が何を選ぶかは決められない。今日の梢は、作業場の鍵を受け取る日だけを予定表へ入れた。文字盤には二十九番も、三十二番もなかった。