二十年先の年賀状
川路永は、大晦日の夜、宛名のない年賀状を一枚だけ残していた。
四十一歳。離婚して初めての正月だった。娘は元妻の実家へ行き、友人からの忘年会も断った。静かな部屋で、テレビだけが知らない人たちの笑い声を流している。
郵便局でもらった古い万年筆には、注意書きがあった。
《自分の名と二十年先の年を書いて投函すると、その年の自分が除夜の鐘のあいだに配達します》
永は半信半疑で、宛名に《二〇四六年 川路永様》と書いた。
近所のポストへ入れ、家へ戻る。
一つ目の鐘が鳴ったとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
立っていたのは、六十一歳の永だった。髪は白いが、若い頃からの猫背は治っていない。郵便配達員でもないのに、赤い鞄を提げている。
「年賀状」
未来の永は、さっき投函した葉書を差し出した。
裏には、知らない名前が十以上並んでいた。
《永さん、今年も畑よろしく》
《朗読会、遅刻禁止》
《おじいちゃん、ゲーム貸して》
《父へ。今度は私がそっちへ行きます》
最後の文字だけは娘のものだと分かった。
「再婚した?」
永が聞く。
「しなかった」
「じゃあ、この人たちは」
「二十年かけて知り合う人たち」
鐘が二つ、三つと鳴る。
「孤独は終わる?」
未来の永は靴の雪を払った。
「終わらない」
永は顔を伏せた。
「でも席は増える。孤独が座る席も、誰かが座る席も」
「娘とは」
「来年、初めて二人で旅行する。そのあと喧嘩する。五年口をきかない。六年目に向こうから電話が来る」
「避ける方法は」
「たぶんある。でも、教えない」
「冷たいな」
「お前が正しい父親になろうとすると、余計こじれるから」
鐘が百回を越えた。
未来の永は赤い鞄から、もう一枚の年賀状を出した。
宛名は現在の永。裏は白紙だった。
「これは?」
「明日の予定を書け」
永はしばらく考えた。
隣の老夫婦から、元日の餅つきに誘われていた。断るつもりだった。
《朝九時、隣の家へ行く》
そう書くと、最後の鐘が鳴った。
未来の永は消えた。
玄関には、二十年先の年賀状だけが残った。
元日の朝、永は九時より五分早く隣家の呼び鈴を押した。
庭には、知らない人が何人もいた。
「ちょうど人手が足りなかった」
杵を渡される。
永は年賀状にあった名前を一つも見つけられなかった。
それでいいと思った。二十年は、まだ始まったばかりだった。