二番乗り場の始発

町を出る朝、妻は二番乗り場のベンチへ座った。

夫が亡くして八年。

娘の住む町へ移ることを決めたが、墓も家も置いていくようで、切符を何度も鞄から出した。

始発まで誰も来ないはずの停留所に、夫が大きな旅行鞄を持って現れた。

「荷物、多すぎ」

「あなたの位牌も入ってる」

「重い物から捨てなさい」

夫は、始発バスが来るまで二番乗り場にいられた。

心残りのある迷い人は、誰かの出発へ紛れてここへ来るらしい。

二人はベンチで朝を待った。

夫は家を売った値段を聞き、安すぎると文句を言った。

妻は墓の管理を寺へ頼んだことを話した。

「私が帰ってきたら?」

「死んだ人は管理費を払わないでしょう」

笑ったあと、妻は切符を握った。

本当は娘の家の近くへ行きたい。

孫の成長を見たい。

一人で雪かきをする冬を終えたい。

それでも楽しみにしている自分が、夫を忘れたようで怖かった。

「心残りは、私?」

妻が尋ねる。

夫は首を横へ振った。

「旅行」

生前、夫は定年後に二人で各地を回ると約束した。

仕事を理由に何度も先延ばしし、退職の翌年に病気になった。

「だから、位牌を持って旅しろって?」

「絶対いやだ。景色を見るたび話しかけられたら休めない」

夫は旅行鞄を開けた。

中は空だった。

「私の分は、ここで降ろす」

妻は、夫の心残りまで自分が果たさなければと思っていた。

夫の行きたかった場所を巡り、好きだった物を食べ、写真を墓へ見せる。

そうすれば一緒に行ける気がした。

「あなたの行きたかった場所は?」

「今から君が行きたくなる場所とは違う」

「忘れそう」

「忘れていい予定もある」

遠くでバスのエンジン音がした。

空が白くなり、夫の輪郭も薄くなる。

妻は位牌を鞄から出した。

置いていくのではない。娘の町の小さな仏壇へ運ぶ予定だった。

それでも旅の荷物としては重かった。

「これだけは持っていく」

「好きにしなさい」

「許可はいらない」

「なら聞かないで」

夫は笑った。

バスが停まり、扉が開く。

妻が乗り込むと、夫は空の旅行鞄を持ってベンチに残った。

「見送られるの、初めて」

妻が言う。

「いつも待たせたから」

「じゃあ、ちゃんと手を振って」

扉が閉じる。

夫は大きく手を振り、バスが角を曲がる前に朝の光へ消えた。

娘の町で、妻は位牌を棚へ置いた。

すぐ旅行には行かなかった。

まず近所の道を覚え、孫と商店街を歩き、自分が食べたい店を見つけた。

夫の予定表ではなく、自分の行き先を一つずつ増やす。

二番乗り場で見送られた朝から、妻は亡き人の続きではない旅を始めた。