井戸から戻るひと
王宮の古井戸は、厨房のさらに奥、使われない中庭にあった。
夜明け前、井戸へ失った人の名を三度呼べば、その人は水の底から戻ってくる。代わりに呼んだ者は、その人を取り戻したいと願った感情を、すべて井戸へ渡す。
水汲み侍女のシュラナは、三年間、毎朝その井戸を掃除していた。
失ったのは妹だった。同じ王宮で働き始めた春、薬草を取りに裏庭へ出たまま消えた。外套も靴跡もなく、池にも城壁にも痕跡はなかった。
古井戸の規則を知ったのは、妹が消えて一年後だ。
すぐには呼べなかった。
妹を戻したい感情は、愛しさだけではない。守れなかった罪悪感、置いていかれた怒り、もう一度叱りたい苛立ち、髪を結ってやりたい優しさ。全部を渡せば、妹が戻っても、シュラナの心には何も残らない。
顔も名前も思い出せる。姉妹だった事実も分かる。けれど抱きしめたいとは思わない。泣き声を聞いても胸は動かず、また失っても追いかけないだろう。
それは本当に、取り戻すことなのか。
三年目の今夜、井戸の縁に小さな傷を見つけた。妹が奉公初日に桶を落とし、金具でつけた傷だった。
――姉さんは、何でも拾うのが上手ね。
妹はそう笑った。失敗した自分を慰めるように、姉の長所へ言い換えた。
シュラナは気づいた。
戻った妹が、姉に愛されていないと知る日が来る。それでも、生きて朝を迎えるほうがいい。自分に抱きしめられなくても、妹を抱きしめる人はこれから作れる。妹の人生は、姉の感情だけで決まらない。
東の空が薄くなる。井戸が名を受け取る時間は短い。
シュラナは縁へ手を置き、妹の名を一度呼んだ。
水面が遠くで揺れる。
二度目。胸の中に、幼い妹の手の感触が満ちた。熱を出した夜、背負った重さ。初給金で買ってくれた青い紐。
最後に残しておきたいものばかりだった。
三度目を呼ぶ。
井戸の水が白く光り、人の形が浮かび上がった。濡れた指が縁を掴む。三年前と同じ顔が、息を求めて水面から現れた。
「姉さん」
シュラナはその腕を取り、石床へ引き上げた。
妹は咳き込み、それから泣きながら抱きついた。
「ずっと、呼んでた。姉さんに会いたかった」
シュラナの腕は、抱き返す形を覚えていた。だから背へ回すことはできた。
けれど胸の中には、妹を失った穴も、戻った喜びもなかった。
濡れた髪を撫でながら、シュラナは自分がこの人のために何を差し出したのか、その重さだけを感情のない頭で数えていた。