井戸に渡さなかった名前
山の集落には、忘れた人を記憶へ戻す井戸があった。
水面へその人の名を呼び、代わりに別の大切な人の名を一つ渡せば、全員の記憶が元へ戻る。
家族は、末のきょうだいを忘れていた。
家の写真には四人分の茶碗があるのに、家族は三人。
柱には一番低い身長線。
押し入れには、誰の物でもない赤い鞄。
祖母だけが、忘れた人がいると気づいた。
井戸へ行き、古い戸籍で見つけた名を呼んだ。
水面に、幼い子どもの顔が映る。
末のきょうだいだった。
井戸は代わりの名前を求めた。
祖母は自分の名を差し出そうとした。
自分が家族から忘れられても、子どもが戻るならよい。
しかし孫たちが止めた。
「一人を取り戻すために、また一人を消すの?」
「私なら年寄りだから」
「年齢で決めるのも同じだよ」
父は亡くなった妻の名を提案した。
もう会えない人なら、忘れても被害が少ないと言う。
子どもたちは怒った。
亡くなった人の記憶も、現在の家族の一部だった。
誰の名も渡せなかった。
家へ戻り、忘れたきょうだいを記憶ではなく、痕跡から知ることにした。
赤い鞄の中の絵。
学校の名札。
家族へ書いた短い手紙。
なぜ消えたのかは分からない。
近所を回ると、皆もその子を覚えていない。
けれどパン屋は毎週一つ、苺パンを余分に作る。
図書館には、同じ児童書がいつも窓際へ置かれる。
公園の木には、小さな手で結んだ紐が残る。
家族はそれらを集め、一冊の帳面にした。
「苺パンが好きだったらしい」
「青い本を何度も借りた」
「犬が苦手」
断定できないことには「らしい」と書いた。
思い出したふりをしないために。
一年後、赤い鞄を背負った子どもが家の前に立っていた。
年齢は、消えた日のままではない。
家族より先に、本人が成長している。
「私のこと、戻した?」
子どもが聞く。
祖母は首を振った。
「誰も代わりに消せなかった」
子どもは泣いた。
嬉しいのか悲しいのか、家族には分からない。
帳面を渡す。
「あなたを知らないまま、探した」
子どもは頁をめくり、苺パンのところで笑った。
「それ、嫌い。弟が好きだった」
家族は最初の記述から訂正した。
井戸は使わなかった。
元の記憶も戻らない。
家族は子どもの名を教えてもらい、今の好物、今の声、いなくなった間のことを一つずつ聞いた。
誰かを取り戻すため、別の誰かを忘れる必要はなかった。
空いた場所へ昔どおり押し込むのではなく、全員が少しずつ席を詰め、新しい椅子を一脚置けばよかった。