人間嫌いの帳面

商店街の端に、「人間関係、嫌い方から教えます」という看板が出ていた。

灯里が入ると、黒い着流しの男が、分厚い帳面へ白い筆で何かを書いている。筆先は墨ではなく、細かな灰を落とした。

「人間は嫌いだ」

男は暮夜と名乗ったが、何のあやかしかは教えなかった。相談料を尋ねると、「内容による。泣く人間は割増」と言った。

灯里は幼なじみのことを話した。

職場で過呼吸を起こしたとき、幼なじみだけに打ち明けた。ところが彼女は善意で上司へ伝え、翌週から軽い仕事しか任されなくなった。「心配だった」と謝られても、許すべきか縁を切るべきか分からない。

「どちらが正しいですか」

「人間は嫌いだ。二択にすると、自分で決めなくて済むと思っている」

暮夜は帳面を閉じ、白い筆で机に三本の線を引いた。

一本目は、されたこと。

二本目は、相手の意図。

三本目は、これから必要なこと。

「混ぜるな。善意は、されたことを消さない。被害は、相手の人生全部を悪意にもしない」

「じゃあ、何て言えば」

「謝罪に『でも』を入れないこと。職場へ自分で訂正を伝えること。今後は許可なく話さないこと。三つを求めろ」

灯里はその場でメッセージを送った。

すぐに返事は来なかった。暮夜は気まずさを埋めるような言葉を言わず、茶を一杯だけ置いた。湯呑みの欠けた部分が、白い線で継がれている。

「これ、直ってるんですか」

「漏れない程度には」

「人間関係も?」

「器と一緒にするな。器に失礼だ」

一時間後、幼なじみから返信が来た。

『善意だったと言い訳した。ごめん。明日、上司に私から説明する。もう勝手に話さない』

信じられるかは、まだ分からない。それでも、何を確かめればいいかは分かった。

灯里が礼を言うと、暮夜は分厚い帳面を開いた。頁には、人の名前と短い注意書きが並んでいる。

「無理をして笑う」「謝る前に菓子を買う」「一人で帰すな」。

嫌いな人間の記録にしては、細かすぎた。

「どうして助けるんですか」

「人間は嫌いだ」

暮夜は白い筆で、灯里の名を書き足した。

その横へ、「答えが来るまで茶を冷ます」と記す。

「嫌いなものほど、扱い方を覚えないと危ない」

そこで入口の鈴が鳴り、次の相談者が顔をのぞかせた。

暮夜は灯里へ新しい湯呑みを押しつける。

「手が空いているな。茶を淹れろ」

「私、客ですけど」

「相談料が足りない」

「金額、聞いてません」

「人間は嫌いだ。だから働く前に条件を聞け」

灯里は呆れながら、もう一つの湯呑みへ茶を注いだ。

帳面の自分の名の下に、白い字が一行増えていた。

――次も来る。

人間嫌いのあやかしは、それを消さなかった。