住所を一度だけ読む

千弦は、転出届と転入届を机の左右に置いた。

東京から故郷へ戻るなら、どちらも必要になる。左の紙には今の住所、右の紙にはこれからの住所を書く。二枚を並べると、人生が住所の移動だけで説明できるように見えた。

故郷の住宅管理人から、確認の電話が来る予定だった。入居意思を一度だけ口頭で伝えれば、鍵が発送される。

二十九歳最後の日、千弦は朝から電話を待っていた。

机には二つのカレンダーがある。東京の美術館や店の予定を書いた卓上カレンダーと、故郷の町役場でもらった農事暦。後者には田植えや初霜の目安が載っているが、千弦は農業をする予定はない。どちらも自分の未来を完全には表していなかった。

帰郷すれば落ち着くのか。東京に残れば広がるのか。そんな二択を何度も作り、どちらにも自分を閉じ込めた。

昼過ぎ、電話が鳴った。

「来月一日からの入居で、最終確認です。こちらへ戻られるということでよろしいですか」

千弦は「戻ります」と答えたあと、違和感を覚えた。戻る、という言葉には、元の場所へ収まる響きがある。だが町は十三年前と同じではない。千弦も、出ていった十八歳の形には戻れない。

「あの」と呼び止めた。

担当者が身構えた声で「はい」と答える。

「戻る、じゃなくて、住みに行きます。意味は同じですけど」

電話の向こうで小さく笑い、「では、鍵を送ります」と言われた。

通話後、千弦は転出届に今の住所を書いた。転入届の住所欄には、故郷の町名と番地をゆっくり記す。書き終えてから、一度だけ声に出して読んだ。懐かしい音ではなく、まだ他人の住所のように聞こえた。

二つのカレンダーから予定のあるページだけを外し、一冊の透明ファイルへ入れる。東京の予定も、故郷の季節も、どちらか一方を捨てる必要はなかった。

鍵が届いても、町が自分の居場所になる保証はない。住みに行ったことを後悔する日もある。

千弦は転入届を封筒へ入れ、明日の誕生日を待たずに封をした。

その住所が自分のものになるまでの不便さまで、引き受けるためだった。