作成者の名前
紀彰のパソコンには、歴代の婚約者というフォルダがあった。
女性の写真、泣き声の録音、診断書、接近禁止命令。私との結婚を前に、偶然パスワードが分かって開いた。指が震え、画面を閉じる前に反射的にキーボードを布で拭いた。
なぜ拭いたのか、自分でも分からない。怖かったからだ。
パスワードは、彼が使いそうな数字を一度入力しただけで開いた。誕生日でも記念日でもなく、私が以前の職場で使っていた社員番号だった。紀彰が私を監視していた証拠だと思った。もっとも、その番号を知るのは私だけだと、彼は生前何度も言っていた。私はその言葉を、秘密を隠す男の巧妙な嘘として取材者へ話した。
もう一つ、私は中身を警察へ見せる前に、すべて外付けメモリへ移した。消されたら困ると思ったのだ。紀彰はその日、駅の階段から落ちて亡くなった。婚約解消を告げるため呼び出した直後だった。
警察は事故と判断したが、私はフォルダを提出した。きっと彼は女性を支配し、別れようとすると診断書を作らせたのだ。私は最後の被害者として、過去の人たちを救う義務がある。
女性たちへ連絡すると、誰も紀彰を知らないと言った。怖くて否定しているのだと解釈し、私は彼女たちの名前を記事に載せないよう記者へ頼んだ。守ってあげたかった。
取材が来ると、紀彰の優しさが演技だったと話した。彼が私の交友関係を狭め、仕事を辞めさせようとしたとも。実際には、辞めると言ったのは私だったが、彼が止めなかったのも支配の一種だ。
数週間後、解析担当者が連絡してきた。
フォルダ内の音声は編集され、診断書の画像には複数の不自然な上書きがあるという。作成日時の多くは、紀彰が死んだあとの深夜だった。
「時計がずれていたんです」
私は答えた。担当者は、ではなぜ元データが私のパソコンにもあるのかと尋ねた。
私は泣いた。死者より生きている女を疑うなんてひどい。
外付けメモリのプロパティには、消し忘れた作成者名が一つだけ残っていた。
それは死んだ彼の名前ではなく、結婚すれば捨てるはずだった私の旧姓だった。