倒産通知の来ない金曜日

金曜日、午後五時四十二分。

冷めたコーヒーの染みが、緊急融資契約の右上に丸く残っていた。

「これに署名すれば、月曜まで会社は生きます」

再生ファンドの担当者が言う。

精密部品会社《鳴海製作》の社長、鳴海蒼一は、その台詞も、その茶色い染みも知っていた。一度目の人生で彼は署名した。契約には、主要顧客が一社でも支払い条件を変えれば全株式をファンドへ譲る条項があった。担当者は裏で顧客へ延期を持ちかけ、月曜を待たず会社を奪った。工場は解体され、従業員は解雇。蒼一には午後六時ちょうど、「破産手続開始」の一斉通知が届いた。

その通知を開いた瞬間、彼は二十分前へ戻った。

担当者が万年筆を差し出す。

「これに署名すれば、月曜まで会社は生きます」

蒼一は万年筆を受け取らなかった。

「月曜だけ生きる契約なら、死ぬ日を先に決めるだけです」

「ほかに現金はありませんよ」

「あります。まだ、頼んでいない相手がいる」

前回の蒼一は、取引先に弱みを見せるのが怖かった。今回は会議室のスピーカーを入れ、最大顧客の購買部長へ電話する。

「納入予定の新型軸受について、前受金をお願いしたい。無理なら、今日で工場が止まります」

担当者が鼻で笑った。

だが受話器の向こうは沈黙したあと、問い返した。

『止まれば、うちの新製品も止まる。必要額はいくらですか』

蒼一は正直に答えた。購買部長は全額ではなく、三か月分の材料費を前払いすると決めた。条件は納期の週次報告だけ。株式も工場も要求しない。

ファンド担当者の顔が変わる。

「今の話は口約束です」

その瞬間、経理端末が鳴った。

《前受金――着金》

午後六時。前の人生では倒産通知が届いた時刻。

蒼一のスマートフォンは、静かなままだった。

代わりに工場の始業予定表が自動更新され、月曜の欄に青い文字が現れる。

《通常操業》

帰り支度を止めていた工場長が、会議室をのぞく。

「社長、炉は落としますか?」

一度目の金曜日には、永久停止の意味で聞かれた言葉だった。

蒼一はコーヒー染みの契約書を担当者へ返す。

「保温で。月曜も使う」

六時一分、主要顧客から正式発注書が届いた。

末尾には、前の人生には存在しなかった一文があった。

『来週も、その次も、納品をお願いします』