内向きの草履

賃貸物件の管理会社に勤める磯辺亘は、草履谷の空き家調査へ行った。二十九歳。村ではその夜「草履返し」が行われ、各戸の玄関前に一足ずつ藁草履が置かれていた。

調査対象は、住人がいないのに毎月内側から施錠される家だった。修繕履歴には玄関交換が十回記録され、どの業者も作業翌日に『入居したため不要』という取消メールを受け取っている。送信者欄は、その時点で室内へ入った担当者の名前になっていた。

自治会から届いた鍵の受渡しメールには、注意が一つだけ書かれている。

《祭りの夜、玄関前の草履を家の内側へ向けてはいけない》

軒下には雨が届かないのに草履から水が滴り、玄関板へ二人分の足跡を作っていた。一組は外へ向かい、もう一組は家の奥から玄関まで来て途切れている。

調査対象の家にも、泥のついた草履が外向きに並んでいた。作業中に雨が強くなり、玄関へ吹き込む。濡れた床を撮影すると管理責任を問われる。亘は邪魔な草履を一度だけ回し、つま先を室内へ向けた。

その瞬間、無人の家の奥で「お邪魔します」と声がした。

亘は全室を確認したが、誰もいない。草履を元に戻して施錠し、町のホテルへ移った。報告書には雨漏りだけを記録した。

空き家の鍵は返却済みなのに、鍵管理アプリでは『室内から使用中』の表示が消えなかった。

翌朝、自宅のスマートドアベルから人物検知通知が来た。亘の自宅は三百キロ離れている。映像には、昨夜の空き家の玄関が映っていた。カメラを設置した覚えはない。

画面の手前で草履が一足ずつ内側へ向き、そのたびに「お邪魔します」という声が増える。最後に、昨夜の亘自身が玄関へ入り、カメラを振り返った。

同時に宅配アプリからメッセージが届いた。

【配達員】指定場所へお届けしました。

【亘】何も注文していません。

【配達員】商品は磯辺亘様です。

【亘】どこに置いたんですか。

返信はすぐ来た。

【配達員】玄関の内側です。

ホテルのドアベルが鳴った。覗き穴の外には誰もいない。だがスマホのドアベル映像には、部屋の内側、亘の真後ろに、濡れた草履を履いた配達員が立っている。

アプリは普段どおり確認を求めた。

《配達を受け取りましたか?》

選択肢は「はい」しかなかった。