円の真ん中
二十三歳の松永史江は、歌うことが好きだと誰にも言っていなかった。一人暮らしの部屋では小さく歌い、カラオケでは選曲係に回る。上手な人のあとに自分の声を出すのが怖く、順番が来る前に飲み物を取りに立った。
駅前の月例オープンマイクも、半年間見に来ている。出演申込の紙を毎回眺め、客席のいちばん後ろで拍手し、名前を書かずに帰った。聴く側なら失敗しない。好きなまま傷つかずにいられる。高校の合唱祭でソロ候補になったとき、直前に声が震え、別の生徒へ交代した。先生は責めなかったが、舞台袖で聞いた拍手を、自分が避けた場所の音として覚えている。以来、人前で歌わなければ、好きという気持ちだけは失敗しないと思った。
ある夕方、歩行者デッキで柊山ユキオが太鼓を叩きながら歌っていた。足元には白いチョークで円が描かれ、聴衆はその外側へ半月状に並んでいる。子どもが一度入りかけ、母親に引き戻された。空いた中心だけが、誰かを待つ小さな舞台のようだった。史江はそこを見ないよう、広告塔へ視線をそらした。円の中だけが空いていた。
史江が端から見ていると、柊山が歌を止めた。
「真ん中は、上手な人の席でしょうか」
「演奏する人の場所じゃないんですか」
「次の一曲だけ、中に立ってください。歌わなくていいです」
断ればいいのに、周囲の人が少し道を空けた。史江は円へ入った。背中を隠す人がいない。視線が集まっている気がして、足元だけを見る。
太鼓が始まり、柊山の声がデッキの屋根へ響いた。円の中では、音が外から来るのではなく、胸や床から同時に上がるようだった。史江は歌わなかった。ただ一度、知っているサビで唇が動いた。誰も笑わず、曲はそのまま終わった。
その夜、駅前ホールではオープンマイクの受付が始まっていた。申込用紙の一番上はまだ空欄だった。史江はいつもの最後列へ向かいかけ、立ち止まる。
受付のペンを取り、空欄に「松永史江」と書いた。紙を渡すと、客席ではなく、舞台中央へ続く列の先頭に立った。