出口はどちらにもない

沓掛霞都は、目覚めるたびに看護師へ同じ質問をした。

「ここは仮想ですか」

終末期患者向け《やわらかな移行》では、死の恐怖を和らげるため、意識を病室そっくりの仮想空間へ段階的に移す。患者は何度も眠り、何度も目覚め、そのうち肉体の死を意識せずデータ人格として暮らし始める。

霞都には、自分が何段階目にいるのか知らされなかった。

窓の外には雨が降り、夫が毎日花を持ってきた。花弁には匂いがあり、夫の手には体温があった。だが看護師は瞬きをしない日があり、雨粒が同じ場所を流れることもあった。

「本物の夫ですか」

「あなたがそう感じるなら」

「身体はまだ生きていますか」

「その答えは治療効果を下げます」

霞都は証明を探した。指を切って痛みを確かめ、夫に二人しか知らない秘密を尋ね、窓から椅子を投げた。痛みも秘密も落下も、すべて再現できた。逆に、現実だと思っていた過去まで、移行後に生成された可能性があった。

夫は「どちらでも一緒にいられる」と言った。霞都はその優しさを疑った。現実の夫なら疲れているはずだ。仮想の夫なら、疲れないよう作られている。

ある朝、看護師が選択肢を示した。《復元可能な永続保存》《一回性モード》。後者では、意識のバックアップを作らず、出来事を巻き戻せない。

「一回性なら現実になるの?」

「いいえ。失敗が取り消せなくなるだけです」

霞都は一回性を選んだ。そして夫に言った。

「私がいなくなったら、再婚して」

夫は泣き、そんな約束はできないと答えた。霞都は初めて安心した。都合のよい返事をしない存在に、現実の重さを感じたからだ。

その夜、霞都は眠った。

次に目覚めた病室が肉体の側だったのか、保存後の世界だったのか、彼女には分からなかった。窓の外では雨が降っていた。夫の椅子は空だった。

霞都は呼び出しボタンを押さず、雨音を最後まで聞いた。

本物とは、確かめられる場所ではなく、同じ瞬間を二度やり直さないと決めた場所なのだと思った。