削除される朝

始発電車まで、あと十分だった。

颯人は無人の改札前で、唯香に合鍵を返した。彼女は今日、北海道へ移る。颯人は反対方向の空港線で出張へ行く。二人が同じ駅にいるのは、これが最後になるはずだった。

「荷物、これだけ?」

「向こうに送った」

「そう」

会話は、鍵より軽かった。合鍵には、二人で住み始めた日に買った黄色い魚のキーホルダーがついている。塗装が剥げ、片目だけになっていた。

唯香が古いスマートフォンを差し出す。颯人が置いていった端末で、写真だけ抜き出してほしいと言われていた。電源を入れると、互いのアカウントが残ったまま同期され、未送信の下書きが二件現れた。

一件は颯人から唯香へ。

〈転勤を断る。君が残ってと言うなら、ここにいる〉

もう一件は唯香から颯人へ。

〈一緒に来て。あなたが来ると言うなら、北海道を選ぶ〉

作成時刻は、どちらも別れを決めた夜の午前二時台。二人は同じ部屋の別々の場所で、ほとんど同じ願いを書き、どちらも送らなかった。

「馬鹿みたい」と唯香が言った。

「本当に」

「言ってよ」

「そっちこそ」

始発の案内が流れる。残り七分。

颯人は当時、唯香が家族のために北海道へ戻りたいのだと思っていた。唯香は、颯人が東京の仕事を捨てるはずがないと思っていた。相手の未来を尊重するふりをして、拒絶されるのが怖かっただけだ。唯香は荷造りの夜、颯人のシャツを一枚借りたまま箱へ入れた。颯人は気づいていたが、返してと言えなかった。

「今なら、どうする?」と颯人が聞いた。

「もう向こうで仕事が始まる」

「俺はまだ断れる」

「それで来たら、私は一生、この下書きに感謝することになる」

唯香は首を振った。

「今の私を選んで来るんじゃなくて、送れなかった昔の私を救いに来るみたいで嫌」

颯人は言い返せなかった。正しさではなく、遅さが二人を分けていた。

電車が両側のホームへ同時に入ってくる。残り二分。

唯香は自分の下書きを削除した。颯人の画面から一件が消える。颯人も自分の一行を選び、確認画面を開いた。

「じゃあね」

「うん」

唯香は北へ向かうホームへ降りた。颯人は南へ向かう階段に立つ。

扉が閉まる直前、颯人は『削除』を押し、反対方向の電車に乗った。