前線は今夜上陸します
気象台の見学会に参加した元陸上自衛官の雲母坂凱は、予報官の説明を聞くなり手帳を開いた。
「前線は現在、九州南部で停滞しています」
凱が尋ねた。
「敵の所属は?」
「温暖前線と寒冷前線が連なった停滞前線です」
「連合部隊か。兵力は」
「局地的に一時間八十ミリ」
「八十ミリ砲!」
予報官は首をかしげたまま続けた。
「南から湿った空気が流入し、夜には勢力を強めて本州へ」
凱は町内会の防災連絡網へ電話した。
「前線が今夜上陸する。南方から増援あり。各班、土のうを準備!」
予報官が慌てた。
「上陸とは言っていません。北上です」
「進軍方向の訂正だな。橋と低地を押さえる」
「押さえるのは適切ですが、相手は天気です」
凱は衛星画像を指した。
「この帯状の部隊が?」
「雨雲です」
「偵察は済んでいるんだな」
「気象衛星で常時観測しています」
「航空支援まであるのか。敵の移動速度は」
「時速十五キロほどです」
「歩兵並みだ。長期戦になる」
凱は地図へ赤鉛筆で進路を書き込み、河川、地下道、高齢者世帯に印を付けた。予報官は訂正する隙を失った。
会話は最後まで軍事報告として成立した。
見学に来ていた小学生が手を挙げた。
「おじさん、雨と戦うの?」
凱は答えた。
「雨そのものは倒せない。だが被害を減らせば、こちらの勝ちだ」
予報官は訂正を諦め、「その理解なら百点です」と言った。
町内会長から返信が来た。
『土のう二百袋、側溝清掃班も集合。避難所の鍵を開ける』
予報官は驚いた。
「ずいぶん手際がいいですね」
「前線を甘く見るな。停滞する敵ほど厄介だ」
その夜、予報どおり激しい雨が降った。川は増水したが、町内会が事前に土のうを積み、側溝を掃除していたため、住宅への浸水は防がれた。
翌朝、予報官が凱へ礼の電話をした。
「誤解はありましたが、防災行動は完璧でした」
凱は満足げに答えた。
「敵の正体が雨でも、守る場所は同じだ」
テレビでは気象キャスターが言った。
『前線は東へ退く見込みです』
凱は町内会へ一斉連絡した。
「追撃は不要。洗濯物を出せ」