半年後の住所

日向藍子のスマートフォンには、送らないままの文章が二つあった。

〈一緒に住もう〉

〈今は住まない〉

湊人から同棲を提案されたのは、藍子が二十九歳になる前日だった。

「三十になる前に、生活を次へ進めない?」

彼は冗談めかして言った。悪気はない。藍子自身も、誕生日が近づくたび、何かを決めなければ置いていかれる気がしていた。

湊人の部屋にはすでに合鍵があり、藍子の部屋には更新案内が届いている。二本の鍵のどちらかを手放せば、答えは形になる。

一緒に住みたくないわけではない。けれど今の藍子には、帰宅後に誰とも話さない時間が必要だった。その理由をうまく説明できないまま同棲すれば、湊人の存在を疲れの原因にしてしまいそうだった。

更新案内は二年契約だった。半年だけ待ってほしいと言っても、部屋は半年単位で残せない。家賃を払い続けるか、同棲へ進むか。中間の選択は高くつく。

藍子は管理会社へ電話し、途中解約の条件を確認した。違約金はない。更新後、半年で退去してもいい。ただし更新料は戻らない。

机に、更新料の振込用紙と湊人の合鍵を並べる。片方は無駄になるかもしれない紙、片方は早すぎるかもしれない未来だった。

藍子は二つ目の文章を開いた。

〈今は住まない。半年後の二月一日に、もう一度私から話したい。そのときまで待ってとは言わない。あなたが待たない選択も受け止める〉

送ると、長い時間が過ぎた。

返事は、〈分かった。約束はしない。でも二月一日は覚えておく〉だった。

藍子は泣きながら更新料を振り込んだ。正しい猶予を買ったわけではない。半年後も迷っているかもしれないし、その前に二人が終わるかもしれない。

三十歳の誕生日の朝、藍子は湊人の合鍵を小さな封筒へ入れた。返すためではなく、毎日持ち歩いて返事を急がないためだった。引き出しには自分の鍵だけを残す。半年後に同じ鍵を取り出すか、郵送するかは分からない。決めない期間にも、物の置き場所を自分で選ぶ必要があった。

それでもカレンダーの二月一日に、自分の名前で予定を入れた。未来を保留したのではなく、保留にかかる金と不安を、自分の選択として支払った。