印のない白木
雪原の交換卓に、白木の城印が置かれていた。
ローヴァン・セリクは、その平らな底を親指で撫でた。昨日まで獅子冠の紋が彫られていた。今は小刀で削られ、何の印も残っていない。
敵が捕らえている若侯エルネと、こちらが捕らえた敵王子カールスを交換する。だが敵后メドラは、もう一人を要求した。
「王子一人と、若侯だけでは釣り合わぬ。城を守った老将も渡せ」
老将とはローヴァン自身だった。
彼がいなくなれば白冠城は崩れる。敵はそう読んでいる。エルネは十八歳。初陣もまだ終えていない。城兵三千は、四十年戦ったローヴァンの城印に従う。
少なくとも、敵にはそう見えていた。
ローヴァンは条件を呑んだ。
交換は三人で行う。まずカールスとエルネが中央ですれ違う。若侯が城側へ着いたあと、ローヴァンが敵陣へ歩く。代わりに敵は一刻、攻撃を止める。
副将は反対した。
「御身を渡せば、城印を奪われます」
「だから削った」
「印がなければ、命令が出せません」
「命令するのは木ではない」
ローヴァンは白木を布へ包み、エルネへ渡す役を足軽に命じた。若侯が戻った時、敵の見える場所で手渡せ。権限が移ったと信じさせるためだ。
夜明け、雪原へ三人が出た。
カールスは唇を噛み、敵陣だけを見ている。エルネは頬に傷があるが、歩けた。中央ですれ違う時、二人は言葉を交わさなかった。
若侯が城側へ着く。足軽が白木の包みを差し出した。
エルネは開き、削られた底を見た。顔がわずかに強張る。
「なぜ印がない」
「殿が命令を出すためです」とローヴァンは遠くから言った。
敵兵が笑った。若造に何ができる、と聞こえる笑いだった。
ローヴァンは武器を雪へ置き、一人で敵陣へ歩いた。十歩ごとに城が遠くなる。背後で門を閉じる鎖の音がした。
メドラの前へ着くと、敵兵が腕を縛った。
「城印は若侯へ渡したか」と敵后が問う。
「見ていたはずだ」
「これで城は黙る」
「木は黙っている」
メドラは意味を取らず、王子を抱いた。周囲の兵がカールスへ集まり、雪原の中央が厚くなる。攻撃停止の一刻を祝っている。老将を得た勝利だと思っている。
城壁では、エルネが白木を握ったまま立っていた。
ローヴァンは振り返らない。振り返れば、若侯は救おうとする。救う命令では城を守れない。
敵の処刑役が縄を梁へ掛ける。メドラは城へ向け、白旗を上げるよう使者に命じた。
その時、白冠城の上で黒い戦旗が開いた。
笑いが止まる。
エルネの声は雪原の端まで届かなかった。だが軍鼓が三度鳴り、城兵が胸壁へ並ぶ。削られた白木に頼らず、若侯が自分の声で最初の命令を出したのだ。
ローヴァンは縄を首へ受けながら、初めて笑った。
城壁上でエルネが剣を抜く。
「東門を開けろ。全軍、出る」
白冠城の門が雪煙の中へ開き、黒旗がさらに高く上がった。