友達のまま改札を出ない
二十三時五十分。加瀬敬人と高柳桐花は新幹線改札の前で、真鍮の鍵を一本ずつ交換した。桐花の列車が出るまで十分。彼女は明日から、三百キロ離れた町で暮らす。
鍵は互いの仕事部屋のものだった。終電を逃したとき、資料を届けるとき、落ち込んだ相手へ黙って食事を置くときに使った。恋人より部屋へ入り、恋人ではないから泊まらない。新しく付き合った相手に関係を説明するたび、「親友」という言葉だけが不自然に大きくなった。
「もう、友達をやめよう」と桐花が言った。
敬人は彼女の鍵を受け取り、頷いた。桐花には赴任先で結婚を考えている人がいる、と共通の知人から聞いた。自分がそばにいる限り、相手を不安にさせるのだと思った。
「そのほうがいい。連絡も減らそう」
「敬人は、本当にそれでいい?」
「新しい生活の邪魔はしない。友達だから」
発車案内が重なった。桐花の唇が動いたが、最後の言葉は聞こえない。彼女は何かを諦めた顔で笑い、改札を通った。
二十三時五十七分。敬人は返された鍵の札を外した。裏には、二人が初めて部屋を借りた日付が刻んである。桐花が鍵を渡したとき、「いつか違う意味の鍵にしたい」と言ったのを思い出した。敬人は、もっと設備のいい部屋へ移る話だと思っていた。
列車の扉が閉まる直前、予約送信のメッセージが届いた。
〈口で言えなかったときだけ送ります。友達をやめて、敬人の恋人になりたい。赴任先に結婚相手はいません。私が相談したのは、あなたと離れない方法です〉
共通の知人が「結婚も考えてるらしい」と省いた主語は、敬人だった。
ホームの桐花が窓越しに画面を見ている。送信済みになったことを知り、敬人の返事を待っていた。列車が動き、二人の間を柱が何度も横切る。
敬人は返信欄に残していた〈友達でいよう〉を削除した。今夜の列車には間に合わない。次の便は午前六時十二分。券売機は始発前から動く。
彼は桐花から返された鍵を財布へ戻し、駅員に閉場を促されても改札を出なかった。始発の切符を買う列へ並ぶため、待合室の椅子に座った。