古い会話を開かずに
由良は、新しいことを始めようとすると、元恋人との古い会話を開いた。
そこには、彼が由良の計画を否定した言葉が残っている。
「どうせ途中で飽きるよ」
「向いてないことにお金を使うの、もったいなくない?」
読み返すたび腹が立った。それでも、申し込みをやめる理由としては便利だった。失敗する前に諦めれば、彼の言葉が正しかったと証明される瞬間を見なくて済む。
夏の終わり、近所の印刷工房が、全四回の製本講座を募集した。由良は紙の束を糸で綴じる作業に以前から興味があった。
申し込み画面へ名前を入力し、受講料の欄で手が止まった。
メッセージアプリを開く。検索欄に元恋人の名前を入れれば、あの会話はすぐ出てくる。いつものように一度読んでから決めようと思った。
検索欄を開いたまま、由良は指を止めた。
読めばきっと申し込みを閉じる。慎重になったのではなく、彼の声を借りて自分を断るだけだと、今日は分かった。
由良は検索欄を閉じた。会話を削除することはできなかった。代わりにアプリごと終了し、講座の画面へ戻った。
「申し込む」を押す。
ボタンを押した直後、由良は検索欄へ戻りたくなった。彼の言葉を読み、やっぱり間違いだったと確認して取り消せば、慣れた場所へ戻れる。申し込み画面にはキャンセル方法も書かれていた。由良はそこを読まず、メールアプリを開いた。古い会話を消すほど強くはなれなくても、今夜の判断に立ち会わせないことはできた。
受付完了のメールが届いた。四回すべて通える保証はない。途中で興味を失うかもしれないし、手先の不器用さに嫌になるかもしれない。受講料を無駄にする可能性もある。
由良は、最後まで続けると誓わなかった。
確認メールを保存し、予定表の初回だけに印をつけた。
その夜、元恋人との会話は消えずに端末の中にあった。否定された記憶も、急には薄くならない。
ただ由良は、寝る前にもう一度読み返して申し込みを取り消すことをしなかった。
画面を伏せると、初回の日付だけが予定表に残った。