合鍵を封筒に入れる

九条綾芽の内定は、六か月だけのものだった。

ベルリンのデザイン事務所で、大型案件の期間契約社員。延長の可能性はあるが保証はない。航空券も住居も自分で手配する。綾芽が二年前から作品を送り続け、ようやく届いた返事だった。

今の会社では、来期から正社員登用の面談が予定されている。確実ではないが、勤続四年の実績がある。六か月のために辞めれば、帰国後は三十歳。再就職の保証はもっとない。

返答期限の夜、綾芽は二本の鍵を白いテーブルに置いた。

一つは今の部屋の合鍵。もう一つは、旅行用スーツケースの小さな鍵。合鍵は管理会社へ返せば、この部屋を手放すことになる。スーツケースの鍵は頼りないほど軽く、六か月分の生活さえ守れそうにない。

友人にはまだ話していなかった。応援されれば行かなくてはならない気がし、止められれば残る理由にしてしまいそうだった。

内定メールには、承諾か辞退かを一語で返信するよう書かれている。綾芽は〈Accept〉と打ち、送信せずに画面を伏せた。

六か月後の自分を想像する。仕事が認められ、そのまま海外で働く華やかな未来。何もできず、貯金を減らして帰る未来。どちらも都合のいい物語で、本当はその間に、言葉が通じない朝や、締切に追われる夜が百八十日ほど並ぶだけだ。

不動産サイトで、帰国後に借りられそうな部屋も調べた。今より狭く、家賃は高い。六か月後に同じ暮らしへ戻れるという期待は、早々に捨てるしかなかった。行くとは、現在を一時停止することではなく、今ある形をいったん終わらせることだった。

綾芽は画面を起こし、〈Accept〉を送った。

嬉しさより先に、退職届、解約通知、保険、航空券という項目をノートに書く。夢は手続きの形をして押し寄せた。

翌朝、管理会社宛ての封筒へ合鍵を入れた。スーツケースの鍵は財布の小銭入れにしまう。

六か月を人生の転機にできるかは分からない。延長されなくても、行ったことを成功に言い換えるつもりもない。綾芽は封筒の口を閉じ、戻る場所を消したのではなく、戻るときには自分で新しく探す責任を引き受けた。