名刺の裏にいる私
鷲尾翠里は、仕事用とファン活動用の名刺を別々のケースに入れている。
表の名刺には、食品会社の営業企画部と本名。裏の名刺には、音楽プロジェクトLiminalを応援するアカウント「境界線の麦茶」と、イベントで配る麦茶のイラスト。二つが混ざらないことが、翠里なりの安全だった。
取引先との交流会で、鞄を落とした。二つのケースが開き、名刺が床一面へ散る。
拾ってくれた同僚が、麦茶の名刺を見て固まった。
「境界線の麦茶……」
翠里は奪うように受け取った。同僚はLiminalのファンではないはずだ。しかし妹がファンで、遠征時に翠里の作った会場周辺マップを使っているという。
以前の職場では、趣味の名刺を見た先輩に「遊びの肩書」と笑われた。それ以来、ケースを色まで変え、仕事の鞄では内ポケットへ沈めてきた。同僚は麦茶の名刺を珍しがりはしたが、表より軽く扱わなかった。折れた角を指で伸ばし、仕事用と同じ向きにそろえて返した。
「会社で言わないで」
頼む声が強くなった。同僚はうなずき、床の名刺を種類ごとに分けた。
「どっちを紹介してほしいか、翠里さんが決めて。勝手に片方を消さないから」
その言葉が、胸に残った。
交流会の終盤、地域イベントの企画担当者が、若い客向けの回遊マップを作れる人を探していると話した。同僚が翠里を見た。紹介するかどうか、目で尋ねている。
翠里は仕事用の名刺を一枚出した。次に、麦茶の名刺も重ねた。
「業務ではこちらです。個人では、こういう案内図を作っています。使う場合は条件を分けて相談させてください」
担当者は二枚を裏返しながら、「同じ人が作っているから、分かりやすかったんですね」と言った。
翌月、翠里は新しい名刺を作った。表に会社の名前、裏に麦茶のイラスト。アカウント名は、裏返さなければ見えない。それでも別のケースへ閉じ込めるのはやめた。
最初の一枚を同僚へ渡す。
「紹介するときは、両面でお願いします」
同僚は名刺を回し、どちらの面にも同じように丁寧な会釈をした。