名前を取り戻す百年シチュー

街道宿《帰り枝》の食堂で、クレハは開業初日の鍋を守っていた。青い香草と根菜を煮込んだ《百年シチュー》。祖母の祖母から継いだ料理だが、香りが古臭いと言われ、夕暮れまで客は一人も来ない。

閉門鐘の直前、灰色の外套を着た旅人が入ってきた。

「宿帳に、名を書けない」

男はそう言った。百年前の戦で《忘名の呪い》を受け、自分の名だけを失ったという。町の門は、真名を宿帳へ記した旅人しか夜を越せない。空欄のままなら、あと半刻で荒野へ追い出される。

彼の持ち物には文字がない。剣の銘も削れ、首飾りの肖像も顔だけが薄い。解呪師は「誰かに名を呼ばれれば戻る」と言ったが、百年を歩くうち、呼んでくれる者は皆いなくなった。

「食事だけでも、最後に温かいものを」

クレハは《百年シチュー》を深皿へよそった。角羊の肉、白根菜、青い帰郷草。帰郷草はこの地方では雑草扱いだが、鍋へ落とすと雨上がりの石畳に似た香りがする。

男は一匙を口へ運び、動きを止めた。

二匙目。硬かった表情が崩れ、視線が食堂ではない遠い場所へ向く。三匙目には、匙を持つ手が震えた。

「この匂いを知っている」

帰郷草を使う村は、百年前に一つだけあった。クレハの先祖が逃れてきた、地図から消えた谷の村だ。

男は肉を噛み、目を閉じた。祭りの夜、母が大鍋を混ぜていたこと。窓辺で妹が青い草をむしっていたこと。帰還した兵へ、最初の一皿をよそう役目が自分だったこと。失われた景色が、湯気の向こうから一つずつ戻る。

皿の底には、帰郷草の葉が一枚残った。男はそれを食べ、長く息を吐く。

「アモン」

壁の灯が揺れた。

「私の名は、アモン・セルダ」

呪いで白くなっていた首飾りに、二人の子供の顔と《兄アモンへ》の文字が浮かぶ。クレハは宿帳を開き、羽ペンを渡した。

彼は百年ぶりの名を、一画ずつ確かめて書いた。最後の線を引くと、閉門鐘が鳴る。宿帳の文字は消えず、門の結界も彼を客として認めた。

代金に差し出されたのは、古い銅貨一枚。片面には、クレハの家の紋と同じ帰り枝が刻まれている。

「これは村の――」

「妹の店印だ。君は、あの子の子孫なのだろう」

アモンは空の皿を両手で包んだ。

「部屋を一つ。それから明朝、同じシチューを。今度は帰るためでなく、ここから始めるために食べたい」

クレハが宿の鍵を渡した直後、開業初日の扉がもう一度鳴った。外には百年シチューの匂いを追って、街道の旅人が立っていた。