名札を裏返さない日
砂原梢は、遠征仲間の前では「こずえ舟」と呼ばれている。
舞台の全国公演を船旅に見立て、各都市の劇場を巡るたび、ファン仲間がつけてくれた名前だ。交流会では手書きの名札を胸につける。けれど会社の人を遠征先で見かけたら、名札を即座に裏返すと決めていた。
その名前をもらったのは、初めて一人で福岡へ行った夜だった。終電を逃しそうな梢を、仲間たちが港を出る船のように送り出してくれた。以来、名札を見るだけで、知らない街でも一人ではないと思えた。
神戸公演の翌日、ファン有志の街歩き企画に参加した。劇中に登場する橋や港を巡り、最後に劇場前で集合写真を撮る。梢は「こずえ舟」の名札と、作品の青いスカーフを身につけていた。
港の売店で飲み物を買っていると、出張中の同僚と鉢合わせた。梢はさっきまで仲間と台詞を再現して笑っていた。その笑顔が急に場違いなものに思え、青いスカーフの端まで隠したくなった。
「砂原さん?」
梢の手は反射的に名札へ伸びた。裏返せば、ただの観光客として話を終えられる。
同僚の視線が「こずえ舟」の文字へ落ちた。梢が動けずにいると、彼女は声を落とした。
「見なかったことにしたほうがいい?」
からかいではなく、選ばせる問いだった。
梢は名札をつまんだまま考えた。守ってもらえるのはありがたい。でも、この名前で何年も人と会い、遠征先で助け合い、舞台の感想を交わしてきた。裏返すたび、その時間まで偽物にしている気がしていた。
「見えて大丈夫。会社では砂原梢で、ここではこずえ舟です」
同僚はうなずき、集合写真の撮影役を引き受けた。レンズの向こうから「こずえ舟さん、もう少し中央へ」と自然に呼ぶ。梢は青いスカーフを整え、名札を表にしたまま笑った。
月曜、同僚は約束どおり誰にも話さなかった。梢も全員へ告白したわけではない。ただ、社員証の裏へ隠していた小さな劇場チャームを、表側へつけ直した。
昼休み、同僚がそれを見て「次の港は?」と尋ねる。
「広島です」
梢は社員証も名札も裏返さず、遠征の日程を答えた。