呼び鈴のある帰り方
瑞希は玄関の靴箱の上に、家の鍵を置いた。
赤い布のキーホルダーは、高校を卒業した日に母がつけたものだ。十年近く、使わなくても財布の奥に入っていた。
「忘れてるわよ」
母が鍵を持ち上げた。
「置いていくの」
「どうして。帰ってきたとき困るでしょう」
父も居間から出てきた。「夜中でも入れるように持っておけ。ここはお前の家だ」
今回の帰省で、瑞希はその鍵を一度も使わなかった。到着前に連絡したのに、母は買い物へ出ていて、瑞希は無人の家へ入った。冷蔵庫には〈煮物を温めて〉と紙が貼られ、食卓には昔と同じ席が用意されていた。鍵を持つ娘は、迎えなくても勝手に元の役へ戻ると思われていた。
「次から呼び鈴を押す」
母は鍵を握ったまま首を振る。「親子なのに、玄関で待たせるの?」
「家にいるか確かめて、開けてもらって入りたい」
「締め出すつもりはないわよ」
「締め出されたいんじゃない。招かれたいの」
父が笑いかけて、瑞希が笑っていないのを見てやめた。
「鍵を返したら、もう来ないのか」
「来るかどうかと、鍵を持つことは別」
瑞希は母の手を開き、鍵を靴箱の小皿へ戻した。赤い布が皿の縁から垂れる。
「突然は来ない。来る日は連絡する。入っていいなら、扉を開けて」
母は「面倒な子」と呟いた。その呼び方には昔の棘があったが、瑞希は拾わなかった。
靴を履き、外へ出る。扉が閉まる直前、父が内側から「次はいつだ」と聞いた。
「まだ決めない」
瑞希は一度、扉を閉めた。
それから門へ向かわず、玄関脇の呼び鈴を押した。家の中で、聞き慣れた電子音が鳴る。
しばらくして、母が扉を細く開けた。
「何」
「こうやって来るから」
母は鍵のない瑞希を見た。扉を閉めず、今度は人ひとり通れる幅まで開ける。
母は開けた扉の内側から、『留守だったらどうするの』と聞いた。瑞希は『その日は帰る。また約束して来る』と答えた。父が奥から『面倒だな』と言い、母も『本当に』と返した。それでも二人とも、皿の鍵を持って追いかけてはこなかった。
瑞希は中へ戻らなかった。ただ、その幅を確かめてから「じゃあね」と言い、自分の足で門の外へ出た。