唇に蓋をする透明膜
北境の伝令たちは、冬になると口を開けなくなった。
冷たい風で唇が裂け、血が文書へ落ちる。王宮化粧院は薔薇水を配ったが、塗った直後だけ潤い、風に当たると前より乾いた。伝令長は「化粧品など役に立たない」と、残った壺を捨てさせようとした。
下働きのトワリは、前世でスキンケア研究をしていた。彼女は水を増やさず、精製した油と蜜蝋で透明な軟膏を作った。目的は潤いを足すことではなく、逃がさない蓋を作ることだった。
伝令長は「油を塗れば砂が付く」と拒んだ。トワリは同じ重さの濡れ布を二枚、北風の吹く窓辺へ置く。一枚には薔薇水、もう一枚には透明膜を薄く塗った。
一刻後、薔薇水の布は軽くなり、端が硬く反った。透明膜の布は重さを八割以上保ち、折っても柔らかい。表面を指で払えば砂も残らなかった。
若い伝令が左右の唇で試した。右へ薔薇水、左へ透明膜。城壁上を一周した後、右には細い裂け目が増え、左は滑らかなまま。熱いスープを飲んでも油が浮かず、手紙へ触れても染みを作らなかった。
化粧院長は艶が乏しく売り物にならないと言う。トワリは香りも色も付けない理由を説明せず、伝令たちへ一人一本を渡した。三日間で、血の付いた配達文書は二十三通からゼロになった。口の痛みで遅れた便も十一件から一件へ減る。
北境公が試作品を塗り、吹雪の訓練で号令を出した。二刻後も唇は裂けず、最後の命令まで明瞭だった。
翌日の配達競争では、透明膜を使った組が全便を時間内に完了した。従来品の組は途中で唇を押さえ、三便遅れた。速く走れる薬ではない。ただ痛みで口を閉ざさず、確認の復唱を最後まで行えた差だった。誤配もゼロになった。
化粧院長は香りがなければ名品ではないと食い下がった。北境公は血の付かない文書をその鼻先へ積み、「名品かどうかは結果が決める」と言った。
伝令長は捨てるはずだった薔薇水の壺を脇へ寄せ、透明な小筒を軍需台へ百本並べた。
「北境軍へ五千本。冬季保護膏の製造契約をトワリに与える」