四月一日、東へ

発車まで十分。峰岸圭太は、桜の花びらが吹き込む小さな駅で、東京行きの切符を握っていた。富樫明日香は改札の外から、焼きたてのパンが入った紙袋を差し出した。

「朝ごはん。向こうで食べて」

「もう昼だ」

「緊張すると食べないでしょ」

圭太は地元銀行から東京本部へ転勤する。明日香は駅前の家族経営のパン屋を手伝っている。二人が会えるのは、閉店後の裏口ばかりだった。紙袋には、その裏口の合鍵をつけた小麦のキーホルダーが揺れている。圭太は閉店後、その鍵で入り、売れ残りのパンを二人で食べた。明日香が失敗した新作だけは、いつも彼が先に味見した。

「鍵、返す」圭太が言った。

「持ってていいよ」

「東京からじゃ使わない」

「帰ってきたときに使う」

「いつ帰るか分からない」

先週、圭太は「一緒に来るか」と聞いた。明日香はパン生地をこねながら「店があるから」と答えた。それで話は終わった。昨夜になって彼女は〈戻ってこなくていい〉と送ってきた。

「本当に、それでいいんだな」

「何が」

「戻らないこと」

「仕事を途中で投げて戻らなくていいって意味」

「同じだろ」

「全然違う」

駅員が改札を閉める準備を始める。

明日香は何か言おうとして、店の電話を取った。予約客からの問い合わせだった。圭太は待ったが、会話は長引いた。発車二分前、彼は合鍵を紙袋へ入れ、改札を通った。

明日香が電話を切ったとき、列車の扉は閉まりかけていた。

「袋の底、見て!」

声は警笛に消えた。

列車が桜並木を抜けてから、圭太は紙袋を開いた。塩パンの下に、東京の製菓学校の合格通知がある。入学は七月。余白に明日香の字で、〈店は弟が継ぐ。三か月遅れで行く。言う前に、あなたが鍵を返した〉

携帯には、昨夜の一文を引用した明日香の新しいメッセージが届いた。

〈『戻ってこなくていい』の続き。私が行くから〉

圭太は東京の不動産会社へ開いていた、長期単身契約の申込画面を閉じた。紙袋から合鍵を取り出し、自分の鍵束へ戻す。そして七月一日、故郷から東京へ向かう切符を、隣り合う席で二枚予約した。