回送バスを見送る場所

 御巫野文乃は、夕方になるとバス営業所の待合室へ寄る。

 路線バスへ乗るためではない。

 一般客も使える小さな部屋から、運行を終えたバスが一台ずつ車庫へ戻るのを見るのが好きだった。

 文乃は翻訳の仕事を自宅でしている。

 一日じゅう机へ向かい、誰とも会わないまま夜になることがある。

 営業所へ来れば、運転手が交代し、整備員がタイヤを見て、案内放送が流れる。

 自分が参加しなくても、町の一日が片づいていく音を聞けた。

 待合室には、硬い椅子が六脚と、自動販売機がある。

 文乃は温かいココアを買い、窓際の端へ座る。

 清掃をする女性が、毎回「今日は何番が最後かな」と声をかけた。

「二十二番」

「私は十七番」

 二人で予想するが、当たっても何もない。

 ある夕方、雪で運行が乱れ、バスがなかなか戻らなかった。

 待合室には乗客も増え、椅子が埋まる。

 文乃は立って窓を見た。

「今日は帰った方がいいですよ」

 清掃の女性が言う。

「待ってる人みたいに見えます?」

「いつも何も待ってないでしょう」

 見抜かれていて、文乃は笑った。

 遅れていたバスが一台、雪をつけて入ってきた。

 運転手が降り、整備員へ何か話す。

 乗客たちは次の便の案内を聞き、少しずつ出ていった。

 文乃は窓へ近づいた。

「バスが戻るのを見ると、安心するんです」

 初めて理由を話した。

「皆、ちゃんと帰ってきた感じがして」

「回送でも?」

「回送の方が」

 清掃の女性はモップを止めた。

「では、あなたも帰るまでが回送ね」

 最後に戻ったのは、予想した二十二番でも十七番でもなく、五番だった。

 雪を落としながら車庫へ入り、エンジン音を止める。

 待合室が急に静かになった。

 文乃はココアの空き缶を捨て、コートを着た。

「本日の最終回送、出ます」

「お気をつけて」

 清掃の女性が自動扉を開けた。

 外は雪がやみ、道路へバスのタイヤ跡が残っていた。

 文乃はその跡に沿って家へ向かう。

 自宅へ戻れば、また一人の部屋だ。それでも営業所で町の一日を見送り、自分も回送になって帰ると、孤独ではなく静かな終業に思えた。

 マフラーにはココアの甘い香りと、車庫の油の匂いが少し残った。

 待合室は目的地ではない。けれど文乃が自分の夜へ戻る前に、町と同じ速度でエンジンを止められる場所だった。