土のついた通帳
閉店十分前、土のついた長靴の女性が銀行へ入ってきた。月岡篤代。布袋から古い通帳を出し、定期預金の相談を頼んだ。
支店長代理は通帳の表紙だけ見て、番号札を返した。
「小口の満期手続きはアプリでできます。今日は法人のお客様の予約が入っています」
「アプリを使わない組合員も多いので、窓口の流れを見たいのです」
「農作業の帰りに視察ごっこですか」
代理はロビーの椅子を指した。私は新人行員で、通帳を端末に通そうとしたが、代理に止められた。
「残業を増やすな。残高が多ければ向こうから予約してくる」
女性は怒らず、待っていた高齢客の振込用紙を一緒に確認した。
ロビーには、農協の送迎車で来た三人の高齢者もいた。代理は全員にアプリの案内紙を渡し、質問には同じ説明を速く繰り返した。月岡は文字の小さい箇所へ丸をつけ、椅子の高さや記帳台の幅まで測った。私が理由を尋ねると、「預ける金より、預ける人の時間を見ています」と答えた。
代理はその会話を聞き、老人相手の世間話は休憩中にしろと私を叱った。月岡は私の名札と、叱責が始まった時刻も手帳へ記した。手数料の説明が分かりにくいと私に伝え、改善案をメモしている。
閉店時刻になると、代理はシャッターを半分下ろした。
「続きは明日。泥は入口で落としてきてください」
その直後、法人営業部長と本店役員が息を切らして駆け込んだ。明日のはずの大口預金契約が、支店視察へ変更されたという。
代理は会議室を整え、どの企業の社長が来るのか尋ねた。
本店役員はロビーの女性を見つけ、顔色を変えた。
「月岡会長、お待たせして申し訳ありません」
代理が通帳を開く。名義は全国農業共済連合会、代表理事・月岡篤代。残高欄は別紙管理で、支店の預金総額を超えていた。
役員が告げる。
「本日、全支店から集約する八百億円の指定金融機関を選定されます。月岡会長は当行の社外取締役候補でもあります」
月岡は土のついた通帳を代理の前に置いた。
「では、預け先より先に、窓口を任せる人を選び直しましょう」