夜の最後に残る名前

一夜市場が閉じかけた頃、ユスティナは妹ネーヴェを見つけた。噴水の縁に座り、口元を押さえている。

「何を買ったの」

妹は答えず、掌を開いた。そこには、父の病を治す薬が一包みあった。

市場の薬は銀貨では買えない。ユスティナが問い詰めると、ネーヴェは唇を動かした。声は出るのに、笑うことだけができなくなっていた。代金に、自分の笑い声を渡したのだ。

父は助かる。妹も生きている。取引は済んだ。それでよいはずだった。

けれどネーヴェはよく笑う子だった。泣きながらでも最後には笑い、狭い家の空気を入れ替えた。父の病室で、誰より笑い声を必要としていたのも彼女だ。

ユスティナは市場の最奥へ走った。最後の天幕には、売られた代金ばかりが並んでいた。瓶の中の涙、箱に畳まれた勇気、鳥籠で跳ねる呼び名。棚の上段で、ネーヴェの笑い声が金色の鈴になって震えている。

「返してください」

最後の店主は、目を伏せた。

「ここでは、今夜誰かが支払ったものを一つだけ買い戻せる。代金は買い手自身の名前。払えば、その名を知る者は、買い手本人も含めて、あなたが誰だったかを忘れる」

ユスティナは息を止めた。

名を失うとは、呼び方がなくなるだけではない。父は娘が二人いたことを忘れる。ネーヴェは姉と暮らした二十年を、相手のいない出来事として覚える。食卓の向かいの椅子がなぜ擦れているか、誰も知らなくなる。

「笑い声は、別のもので買えませんか」

「最後の店に値引きはない」

天幕の外で、閉場の鐘が鳴り始めた。三つ鳴り終えれば市場は消える。

ネーヴェが追いつき、姉の腕を掴んだ。首を振る。笑えない口で、帰ろうと言っている。

ユスティナは幼い日の妹を思い出した。転んだ姉を笑い、怒られるともっと笑った。母の葬儀の夜、二人で泣き尽くしたあと、鼻水だらけの互いの顔を見て笑った。あの音に何度救われたか、妹は知らない。

一つ目の鐘。

ユスティナは店主から名札を受け取った。

二つ目の鐘。

自分の名を書く。母が選び、父が呼び、妹が最初に覚えた四音。

ネーヴェが紙を奪おうとする。ユスティナは抱きしめ、その耳元で最後に言った。

「あなたの姉でいられて、よかった」

三つ目の鐘が鳴る直前、名札を店主へ渡した。

金色の鈴が割れ、ネーヴェの笑い声が夜へ戻った。

妹は泣きながら、知らない女の腕の中で小さく笑った。