婚姻届の青い線
志賀千尋は、挙式会場から区役所の夜間窓口へ逃げた。
三枝瑠璃が追いつくと、千尋は提出用の婚姻届を膝に載せ、待合椅子に座っていた。白いドレスの上から、瑠璃が車に積んでいた紺のコートを着ている。
式の直前、新郎の父から一枚の「結婚後の確認書」を渡された。子どもは二年以内、出産後は時短勤務、年末年始は夫の実家を優先、住宅購入は父の会社を通す。新郎の署名はすでにあり、「形式だけだから」と千尋にもその場で書くよう求めた。
千尋は確認書を持ったまま会場を出た。婚姻届まで提出されるのが怖くなり、新郎の鞄から自分で取り返してきたという。
瑠璃は二十四歳で結婚し、出産を機に仕事を辞めた。義実家で年を越すことも、家族のためなら苦にならない。千尋が挙げた条件のいくつかは、自分が自分で選んだ暮らしと同じだった。
だからこそ、似ていることと、押しつけられることは別だとわかった。
「破る?」
瑠璃が確認書を指す。
千尋は首を振った。「見せて、話す。なかったことにはしない」
二人はコンビニへ行き、確認書と婚姻届をコピーした。原本、千尋の控え、新郎へ渡す控え。瑠璃がページをそろえ、千尋がホチキスを留める。紙の端がずれ、三回やり直した。
夜間窓口へ戻ると、係員が婚姻届を受け取るために手を伸ばした。千尋はその前で止まり、提出しないと告げた。係員は驚かず、書類を返した。
待合椅子で、千尋は青いボールペンを出した。確認書の署名欄に一本、斜めの線を引く。契約を拒む印だった。
瑠璃も、自分の手帳から白いページを切り取り、同じ青いペンで線を引いた。千尋の条件に反対するためではない。自分が選んだ専業の暮らしまで、誰かの命令と一緒にされたくなかった。
二本の線は形も長さも違った。
千尋は新郎へ、話し合いの場所と時間だけを送った。瑠璃は近くのファミリーレストランを予約し、入口に近い席を指定した。話すのは千尋一人。瑠璃は別の席で待つ。
「戻る?」
「会場には戻らない。話には行く」
千尋が立つ。瑠璃は婚姻届をクリアファイルへ入れ、千尋は確認書を自分の鞄へしまった。
区役所の自動ドアを出ると、夜風がドレスの裾を膨らませた。二人は押さえ込まず、片側ずつ持ち上げた。
提出されなかった紙を間に挟み、同じ歩道を歩き出した。