子供の飯椀
長篠ではない。名も残らぬ小城だった。
城代の丹羽津久見は、子供用の飯椀を両手で持っていた。朱塗りは剥げ、底に兎が一匹描かれている。
城には兵百三十、百姓二百、子供四十七。米は一斗。井戸端では母親たちが、泣く子へ空の椀を持たせ、食べ終えたふりをさせていた。
兵へ配れば今夜戦える。子供へ配れば、明朝まで泣かずに眠れる。
包囲軍の使者・黒瀬頼母が門外から告げた。
「門を開ければ、民へ粥を出す。武士は刀を置け」
城兵は罠だと言った。降った民を斬った軍はいくらでもある。
津久見は使者へ飯椀を渡した。
「これを満たして返せ」
「何の真似だ」
「生米ではなく、炊いた飯で」
敵に米がある証だけなら、一掴み見せれば済む。津久見が知りたいのは、蔵の量ではなく、約束のために火を起こす気があるかだった。だが炊いた飯を返すには、毒を疑われぬよう自分たちの釜からよそうしかない。
さらに津久見は命じた。
「椀の兎の耳まで、きっちり詰めろ」
城の者しか知らぬ傷を目印にした。椀をすり替えれば、約定は偽りとみなす。
半刻後、椀が戻った。
温かい白飯が、兎の耳まで詰まっていた。湯気が門の狭間を抜けると、見張りの足軽が無意識に唾を飲んだ。
津久見は一口食べた。毒味を待つ暇はない。甘かった。
「敵を信じるのか」
若侍の鵜飼篤之助が訊いた。
「信じぬ」
「なら戦うべきだ」
「だから試した」
椀の縁に、小さな歯形が増えていた。敵陣の子供が、運ぶ途中で一口噛んだのだろう。包囲軍も兵だけではない。徴発された家族が陣にいる。
頼母は民を助ける聖人ではない。四百人を殺して城を焼くより、田畑と労働力を残す方が得だと計算しただけだ。
だが利で守られる命も、命だった。
「武士の首はどうする」
「俺一人で足りると書いてある」
返された椀の底に、細い墨文字があった。
津久見は残った一斗を炊かせ、城兵ではなく子供へ配った。
若侍たちは黙って刀を外す。
「恥ではありませんか」
「腹を空かせた子を盾にして死ぬ方が、俺には恥だ」
夜明け前、津久見は飯椀を門の敷居へ置いた。
閂へ手をかける。
「開門」
古い門が、白い朝へ開いた。